篠遠喜彦博士の遺志を想い、
タヒチの山に登って考えてみたこと
生涯をかけて、謎だらけのポリネシア文化の解明に挑んだ日本人研究者
新型コロナウイルスの世界的パンデミックが始まる直前、2019年9月に南太平洋に浮かぶタヒチの離島フアヒネ(Huahine)島で、ひとりの日本人考古学者を追悼する式典が開催された。
人はなぜ、いつ、どのようにしてこの広大な大海原を渡って南太平洋の島々に移り住んだのか?
この人類史上最後の民族移動の解明に生涯をかけて取り組んだひとりのパイオニアが篠遠喜彦(しのとお・よしひこ)博士(享年93歳)でした。篠遠博士は、ハワイビショップ博物館に籍を置き、50年以上にもわたり、ポリネシアを中心とする人類史の謎に挑んだ考古学者です。篠遠博士は長年にわたり、ポリネシアの人たちのアイデンティへの問いかけに寄り添うように、彼の地に暮らしながら、島の人たちといっしょに発掘を続けました。
タヒチとは、南太平洋に位置するソサエティ(Society)諸島の総称です。広い太平洋の中、ハワイ、ニュージーランド、イースター島を結んだ一辺が8000kmにもなる巨大な三角形の内側がポリネシア。タヒチはその中央部にあり、周辺のオーストラル(Austral)諸島、トゥアモトゥ(Tuamotu)諸島、ガンビエ(Gambier)諸島、マルケサス(Marquesas)諸島など118の島々で構成されるフランスの海外領土で、独自の自治権を有する「フランス領ポリネシア」です。
博士は土器が出土しないハワイ諸島で多数出土した釣りばりに注目しました。針の形や大きさ、素材やデザインの違いによる文化編年が可能なのではないかと着想し、その方法論を研究。その後、調査範囲を東ポリネシア全域に拡大していき、そして、ポリネシアにいつ、どのような経路で人類が移住したのかを世界で初めて提示します。そして1972年、ついにタヒチのフアヒネ島で水没遺跡を発見。ポリネシアで初めて古代の遠洋航海型双胴カヌーの多くの部品を掘り出したのです。そうして1975年にはアメリカ建国200年を記念し、ハワイで企画された実験航海プロジェクトの学術顧問に就任。このとき復元された遠洋航海型ダブルハルカヌー「ホクレア号」は、ハワイからタヒチの約3000kmの航海を夜空の星や風で方位を知るなどの伝統的な航海術、スターナビゲーションをもって成功させました。そうして文字通り埋もれていた過去をポリネシアの人たちに贈り届けたのです。
人はなぜ海を渡ったのか。その解のヒントをタヒチの山に求めて
このたびの式典は篠遠博士の功績を讃える記念碑が、フアヒネ島に建立されるということで、生前から博士と仕事を通して付き合いのあったライターとカメラマン、そして私の3人がハワイのビショップ博物館からの招待を受け、日本から取材を兼ねて参加してきました。この式典はフアヒネ島の地域コミュニティと行政も主催に名を連ね、島民たちの手による、篠遠先生に対する愛情が感じられる心のこもったものでした。
しかし、いつ、どこから、どうやって・・・までは、ほぼ解明できましたが、なぜ海を渡ってきたのかという壮大な問いはいまだに謎のままです。このたびのコロナ禍や戦争のように、疫病を逃れて島を棄て・・・人間同士の戦いの果てに島を追われ・・・水平線の向こうにあるという楽園を夢見て・・・単純な未知なる場所への好奇心・・・飛んできた海鳥の行く先を追って・・・などなど諸説あり、世界の研究者の間でも真相は未知のままです。しかし、未知なるものを知りたいという欲求や好奇心、憧れが挑戦や学問を究め、一つひとつの謎が解き明かされていくのだと思います。
私はタヒチに来たのはこれが初めてでした。篠遠先生とは日本に来た時に、何度かお会いしたことがあったぐらいで、式典に参加できたことは、同じ太平洋の島国の人間として、とても光栄なことでした。
また今回の旅のもうひとつの目的は、タヒチの山に登ること。「人はなぜ海を渡ったのか」という解のヒントは、もしかしたら山にあるのではないかと、ひそかに思いながら、まず島を知るには高いところから島全体を俯瞰してみようというわけで、タヒチの山に登ってみることに。
急峻な山々が連なるタヒチ・ソサエティ諸島
タヒチは青い海もさることながら、ソサエティ諸島でいちばん大きな島であるタヒチヌイにある最高峰のオロヘナ山(Mont Orohena 2241m)をはじめ、となりのモーレア島やマルケサス諸島など、急峻な鋭鋒が印象的な山の島です。古くから山にカミを見出してきた人間にとって、その光景は荘厳であり神秘的なものを感じずにはいられません。古代ポリネシア人たちも、その島影に興奮し、島の概要を知るために、きっと一番高いところに登って、自分たちがいる世界を見渡したにちがいありません。
そこで私たちがめざしたのは、となりのモーレア島にそびえるモウアプタ山(Mou Aputa 830m)です。モウアプタとは、タヒチ語で山を意味する「モウア(mou’a)」と穴を意味する「プタ(puta)」が山名になっているように、遠くからでも見える頂上付近にある穴が印象的なトンガリ山で、クライマー魂をそそられるピークです。
モーレア島は火山が隆起した島で、長い時間をかけた侵食によって、島内最高峰のトヒエア山(Tohiea 1207m)、ロツイ山(Lotui 899m)、バリ ハイとも呼ばれるモウア ロア山(Moualoa 880m)など多くの山で構成された山岳島なのです。とはいえ、なぜタヒチまで来て、海でなく山に登るのかと問われると、そこに山があるから・・・と答えるほかはありません。ところが、モウアプタに関する情報は、ほとんどありません。情報がないというのも、とても魅力的でワクワクしますが、日本のようにルート線が引かれた地形図があるわけでもなく、どこからどうやって登ればいいのか? 本当に登ることができるのか? 現地に行っても具体的な情報は得られませんでした。それでもアルピニズムの本場、フランス領ということもあって、ネットから物好きなフランス人クライマーの数少ない情報を集め、ようやく登れることは判明しました。しかし登山口を探すのにほぼ1日かかり、途中まで登ったにもかかわらず時間切れで敗退、その日は偵察ということで、翌日に再びチャレンジすることに。
ところが登山口を探している道中に、大きな滝と遭遇!トレイルが滝壺直下まで伸びていて、熱帯雨林のジャングルで汗だくになった体に真水のミストがとても心地よく感じます。急峻な山は谷をつくり、山肌にいくつもの滝がかかり、まるで日本の渓谷のようなタヒチの山は、豊かな水の島でもあったのです。タヒチの重要な産業に真珠の養殖事業がありますが、穏やかなリーフと汽水性の生物をはじめとした多様性に満ちた生態系がなければ成り立ちません。
人間だけがもつ、未知への限りない情熱
翌日は強い日差しを避け、太陽が上がる前に行動を開始。野生なのか栽培しているのか判然としないバナナやマンゴーを横目に、トロピカルな花が咲く林道を抜けて昨日、途中まで登った谷沿いのトレイルをどんどんと進む。
ジャングルの様相を呈する谷筋から、ようやく尾根状になった肩に上がると、今歩いてきた常陽広葉樹の森が眼下に広がる。行く手を見上げると緑の稜線が青い空に続いている。下から見上げる山容からは、岩稜が続くことを予想していたが、予想に反してルートは滑りやすい赤土で覆われ、急な場所にはフィックスロープも張ってあり、ロープを頼りにどんどんと高度をあげる。すると、右上方にようやく例の穴が見えてきた。角度のせいか近くで見ると思ったよりも穴は小さく、その上部が頂上であることを考えると、人が乗って崩れることはないだろうと安心した。
頂上に目をやると、なんと先客がいるではないか。遠く離れたヨーロッパから長い時間をかけて無人島だと思って発見した島に、もうすでに人が住んでいて、高度な王国文明を築いていたことに驚いた500年前のキャプテンクックの衝撃とはこんなものではなかったのだろう。世界とは広いもので、私たち以外にも変わり者はまだまだいるようで、すれ違いざまに言葉を交わすとドイツから来たというハイカーで、やはり下から見上げるあの穴が気になって、自分の目で確かめようと、ここまで登りに来たという。
未知への限りない情熱は、抑えることのできない内なる情動であり、人をここまで突き動かすエネルギーとなる。ラテン語で言うところのDesiderium incognita /デジデリウムインコグニタ(未知への情熱)は人間だけに備わる特別な能力なのだ。人はなぜ海を越えたのか? 人はなぜ山に登るのか? その答えは人間だけにしかわからない。人間だからというほかはない。
文◎滝沢守生(たきざわ・もりお)
学生時代から長年にわたり、ウラヤマからヒマラヤまで、国内外で登山活動を展開。その後、山と渓谷社に勤務、アウトドア雑誌や書籍の編集に携わったのちに独立。(株)ヨンロクニを設立し、アウトドアニュースサイト『Akimama』の配信やフジロックフェスティバルをはじめ、野外イベントの制作、運営を行なう。コンサベーションアライアンス(日本アウトドア環境保護基金)事務局長。鎌倉在住。
写真◎飯田裕子(いいだ・ゆうこ)
ハワイ、タヒチ、イースター島、クック諸島、パプアニューギニアなど、太平洋の島々を巡り、太平洋島嶼の文化や人々の撮影をライフワークとする。一方、北朝鮮やブータン、モンゴルなどアジア辺境へも出かけ、人と自然の織りなす世界を旅し、日本人のルーツ的文化を撮影。10月からニコンプラザ東京THE GALLERYで「海からの便りⅡ」と題した写真展を行なう予定。現在は、千葉県南房総に移住して活動の拠点としている。