WATERMAN'S TALK

Passion , That is all you need and everything else will come along
ウォーターマン・スピリットの
源流を航海する

今月のウォーターマン
2022年8月31日
main image

PROFILE

  • 内野加奈子/多美子・フェルネリウス

    Kanako Uchino / Tamiko Fernelius
    「ホクレア」クルー

海上保安庁の仕事を辞め、ホクレアのクルーを目指してハワイへ

WATERMAN’S TALK(今月のウォーターマン)は、毎号一人のWATERMANを紹介していく連載企画です。WATERMANの一般的な定義はありませんが、ここでは「海が大好きで、海に感謝の気持ちを持ち、海の窮状を目の当たりにして、海のために何か行動を起こしている人物」とします。15回目はついこの間、ハワイからタヒチまでの往復5000キロを、ハワイの伝統航海カヌー「ホクレア」に乗って航海してきた二人の日本人、内野加奈子さんと多美子・フェルネリウスさんの登場です。

ハワイの伝統や歴史を語るうえで、このホクレアほど大きな意義を持つものはないでしょう。ある時期、ハワイ語を話すこともフラを踊ることも禁止され、靴を履き西洋式の生活を強いられていたハワイアンたち。そんな彼らが実は世界大航海時代よりもずっとずっと前から星や月などを頼りに果てしない距離を旅する航海術を持っていたということがわかったのは70年代後半のこと。それを機に当時の航海を復活させることになり、以来ホクレアはハワイアンルネッサンスの中心となり、ハワイ独自の文化や伝統の素晴らしさを再認識し、ハワイアンがハワイアンとしての誇りをもち続ける象徴となっています。

加奈子さんと多美子さんは、ホクレアに関わり始めたきっかけや時期は異なりますが、今回の航海のクルーに選ばれた日本人として共通しているのは、地道に、そして何年もの時間をかけてホクレアと関わり、メンバーとの確かな信頼関係を築き上げてきた点だと言えるでしょう。

近い将来ホクレアは、環太平洋の航海に出発します。今回のタヒチへの航海はそのためのトレーニング、準備航海としての要素が強かったと聞きます。往路も復路もクルーとして乗船した二人。航海を終えたばかりの二人に、現在の心境や将来の計画やビジョンなどをインタビューしました。

━━━ まずは簡単にホクレアに出会い、クルーになるまでのバックグラウンドを教えてください。

内野加奈子(以下、KA) 私は大学の頃、ダイビングに夢中になり、伊豆に毎日のように通っていました。水に顔をつけるだけでその向こうにはまったく知らない別世界があることに魅了され、真冬にもぶかぶかのウエットを着て潜っていました。そんな時、海洋生物の研究をされていたジャック・モイヤー先生の存在を知り、彼を訪ねて三宅島に行き、大きな影響を受けました。先生はご自身の研究だけでなく、子供たちのための環境学習にも力を入れていらっしゃいました。そこでホクレアの存在を知り、ホクレアについてしっかり学んでみたいと思い、ハワイ大学の大学院に入りました。ホクレアのこともあってハワイしかないと思ったんです。1998年のことでしたが、大学入学許可をもらった2日後に、なんと偶然にも永住権が抽選で当たったんです。グリーンカードが当たったことでこれは運命だ!って感じました。行く頃には海のこともそうだけど、本気でホクレアのことを学びたいという思いが強かったです。

当時ホクレアのヘッドクオーターはアロハタワーにあったんですが、ホクレアがすぐ前のハーバーに係留されていたんです。それを見ただけで心が躍るような気持ちになりました。ハワイに行ってすぐホクレアの活動に関わらせてもらい、2000年から航海トレーニングに参加するようになり、カウアイや北西ハワイ諸島などに行きました。

大きな航海のプロジェクトを前にして、ドライドック(カヌーを自らあげて陸上で細かいメンテナンス作業をすること)でいろんな準備があったんですが、それは本当に気合を入れてがんばりました、そのやる気をかってくれたんだと思います。当時はナイノア・トンプソンとブルース・ブランケンフィールドが中心で、ナイノアに航海術を教えたマウ・ピアリイグは、ハワイとサワタルを行き来している感じでした。マウから聞く話や彼の様子に直接触れることができたのは貴重な経験であり、宝物です。

大学の夏休みにマウに島に来るかと言われて、こんなチャンスはない!とサワタル島に行きました。2001年か2002年の夏頃、夏休みの5週間くらいです。サワタル島はハワイや日本とはまったく違う時間が流れていて、こんな暮らしまだあるんだという印象でした。マウと接していると古代のやり方で生きていて、文字ではなく口承で理解、記憶するんです。物事の捉え方、処理の仕方、こういうふうに伝統航海を学んでいくんだなということを実感できました。

今では本当に経験し難いことです。次世代のホクレアのクルーたちにとっては、マウはすでに伝説の世界の人で、身近に感じられないと思うので、彼と過ごした時間や教えをしっかりと伝えていきたいなあと思います。

多美子・フェリネルアス(以下、TF) 私は小さい頃、親がしょっちゅう海に連れて行ってくれて、グラスボートにも良く乗せてくれたんです。グラスボートで竜宮城みたいな海中を見るのが大好きでした。当時はサンゴが色とりどりで魚もたくさんで、わー本当に竜宮城だーって感動したことを覚えています。毎年夏休みは家族、親戚の大勢で1泊のビーチパーティー(沖縄風に言うとビーチパーリー)があって、運動会で使うようなテントを立てました。それは毎年恒例の一番大好きな行事でした。 それが海を好きになったきっかけかな。

海が好きで好きで、こんな素晴らしい自然環境を守ったり、子供たちに海のことを教えたり、安全を守ったりする・・・そんな仕事に就きたいと思っていたので、海を守る仕事として海上保安庁を選んだんです。でも実際に働いてみると、先島の防衛とかそんな仕事が多かったり、全く環境を守るのと異なることをやっていたこともあり、自分の中でモヤモヤしていました。その頃ホクレアの記事に出会い、これこそ私が理想としているものだ!っと衝撃を受けました。これだ!とは思ったけれど、沖縄にいてどうしたらホクレアに関われるかなんて想像もつかなかったから、その時は具体的には何もせずにいて、その間に結婚をし、ミネソタ州に引っ越したんです。海もない冬は凍りつき、雪に埋まる州です。ある時ホクレアが航海で沖縄に寄港したということを聞き、ものすごくショックで残念な気持ちになりました。自分はこんなところで何をしているんだろう?って。

その後、夫にハワイに赴任できるよう願い出てくれと説得し、3年後にハワイに引っ越ししました。引っ越して2、3日後にはホクレアのオフィスに行って挨拶をし、それからは週2回、火曜と木曜のクルー・ミーティングに必ず参加しました。世界一周航海が始まろうとしていた頃で、その時初めて加奈子さんにもお会いしたんです。ある時ミーティングが終わった後、車を持っていなかった私は、夫が迎えに来るのを待ちながら暗い道を歩いていたんですが、加奈子さんが車を止めてくれて、明るいところまで乗せていってくれたんです。その時、私はずっと持ち歩いていた加奈子さんの書いたホクレアの記事を彼女に見せました。彼女は笑ってその記事の中にある写真についてとか話してくれたのを覚えています。夢みたいでした。何年も想い続けたホクレアの記事を書いた本人が普通に私に話しかけてくれてるんですから。

その時、加奈子さんに世界航海に参加するのかを尋ねたら、彼女は裏方としてサポートして日本に帰ろうと思うと言っていたのを覚えています。残念な気持ちになったけど、人それぞれだし加奈子さんはやり切ったから次のステージに行くのかなとか思っていました。私はといえば何年もやりたかったことが間近にある生活、とにかく学べるものはなんでも吸収しようと意欲的に動いてました。特にドライドックの時は頑張りました、めんどくさい仕事とかでも進んで一生懸命やりました。一つひとつの部品を外して磨き、というのを繰り返すんです。クラスルームでは基本を学びます。星の識別の仕方、緯度の測り方、そういうことはみんな航海に出る前に全員が学びます。そして実践で確認し身につけるんです。

右から一番目が多美子さん、二番目が加奈子さん。
右から一番目が多美子さん、二番目が加奈子さん。

最初の航海の後、その経験を広く伝えたくなり日本に帰国

━━━ 二人とも最初からかなり強い想いで参加し、クルーに選ばれるまでになったようですが、それぞれいつの航海が最初でどんなことを感じましたか?

KA 2002年に初めての航海をして、それからハワイ諸島や近くの島々などを回っていました。2007年にハワイからミクロネシア、そして日本へと航海をしました。一番印象的だったのは航海術を最初に教えてくれたマウ師に敬意を表てサワタル島を訪れた時のことです。

TA 私は世界一周の航海のヒロからタヒチ、オーストラリアのブリスベンからダーウイン、モーリシャスからケープタウン、それからアメリカのイーストコーストの3箇所くらい、そしてパナマからガラパゴス、ラパヌイからイースターアイランド?までに参加しました。

━━━ 大海原で天気が急に変わったりして怖かった出来事はありましたか?

TA 実は怖いのは外洋を航海している時より入港・出港の時なんです。リーフを抜けて波に撒かれないように入ってきたり、港で船をぶつけたり、そういう時の方が危険は多いんです。クラスルームで何から何まで学び、細かいバックアッププランなどを用意しますが、ハワイ諸島を航海する実践のトレーニングはいくら机で学んでも実際に海に出たら思いがけないことがいくつも出てくることを教えてくれました。サウスアフリカで嵐にあい、予定していた港に入港できず、モザンピークに避難した時にエスコートボードのアンカーが切れてホクレアにぶつかったことがありました。あれは怖かったですね。ボートがへこみましたが、みんなですぐに直して復活しました。

━━━ 加奈子さんは世界一周の航海の時は日本にいらしたとのこと、後悔はなかったですか?日本に帰ろうと決めた理由というか、どういう心境だったのでしょう。また、日本ではどのような活動をされていたのですか?

KA 航海が終わった後、ある程度やり切った感があったと同時に、終わったというより今度はその経験をアウトプットしたいという気持ちになってここからスタートという気持ちでした。そんなときに土佐山アカデミーからお誘いがあり、海の学校をスタートして、子供たちを対象に星野航海術の説明や環境教育などいろんなことをやっていたので本当に忙しく過ごしていました。ホクレアについての文章が教科書に使われることにもなって、それもすごく意味のあることでした。最初は毎年ハワイに帰って来ようとか思っていたのに、そんな余裕もなくずっと帰れず、2019年にやっと2か月くらいハワイに滞在しようと思っていたらコロナ禍が始まり、ずっと滞在しているうちにホクレアに完全に関わることになったという次第なんです。最初はやろうなんて思ってなかったんです。

━━━ ホクレアに関わっていた時期がずれていたのであまり接点はなかったわけですが、今回の航海では二人ともフル参加、往復ともに航海されたわけですよね。そんな中で感じたお互いの印象や全体の中でのそれぞれの役割などを教えてください。

TA 加奈子さんは私が進む道のずっと前を歩いてきた人だからすごく余裕がある感じがします。落ち着いていて、いつも全体を見る余裕がある。自分のことで精一杯になりがちな状況でも自分の役割をしっかりこなしながら周りをちゃんと見ている。それに今回すごいなと思ったのは復路で急に一人乗れなくなってしまったクルーがいて、急遽ナイノアに頼まれて動画を撮ったり、それを編集してアップする役割を頼まれたんです。元々そういうのに得意な方ではなかったのに、頼まれて海の上でコンピューターと睨めっこして動画編集の仕方を学んでそれをこなしていた。私にはどうがんばってもできないですよ。チームで必要なところをカバーできる余裕があるんです。そして言葉の表現の仕方がすごく上手、コミュニケーションのとり方が素晴らしい。

加奈子さんはずっと私の前を歩いてきた。でも今回一緒にいて、一緒に笑ったり泣いたりした・・・なんか夢が叶った感じです。

KA タミちゃんは私がいなかった5年くらいの間にものすごく自分の居場所を作る努力をしてきたんだなと感じます。たぶんドライドックとかで毎日の単純な作業や整理を嫌がらずにやったり、みんながやりたがらないような細かい作業とかをすすんでやってきたんだろうと思います。だからみんなが彼女を信頼しているし、どんなものでもどこにあるかなーなんていうときにはタミーに聞けばってなるんです。彼女がすべてのことを把握してるからって。

男女差別のない、互いをリスペクトし合うハワイ文化の伝統

━━━ 今回の航海について感じいていることなど聞きたいのですが、一番の目的や意義、あるいはどんな思いをのせての航海だったのでしょう?

KA 昔の航海とは変わってきていると思います。最初はハワイアンとして自分たちのアイデンティティー、ルーツを探るためのものだったと思うんですが、今はハワイアンだけでなく世界中のインディジニアスの意識を高めるため、そして世界中の人々の平和のため、地球上で人間がどう生きていくかを考えてもらうための航海。海を渡るカヌーから、自然と人とのつながりをメッセージとして伝えるような、そんな目的に変わってきていると思います。

TA 今回のタヒチへの航海は特にナイノアの、女性を応援したいという気持ちを感じました、もちろんそのように言葉にしているわけではないのですが、それはクルーの中の女性という意味ではなくて、ホクレアは元々男女の差というのは全く感じない世界で、女性も評価されるし、実際レフア・?が往路のキャプテンでありナビゲーターでした。今、ナイノアと同じレベルですべてを把握しているのは彼女だけだと思います。昔からのメンバーで、カウイラニ・ポマイという女性もなくてはならない存在でした。力仕事はやはり男性に頼るところが大きいですが、女性ならではの優れたところもあるし、実際に今回は女性のクルーが半分以上でした。ナイノアは女性をプッシュしてホクレアで女性がリードし、活躍している姿を見て、訪れる島々で、女性の地位がそれほど高くないところでその様子を見て女性がインスピレーションをもらえたらと願っているんだと想います。ミクロネシアの中にはまだまだ女性の地位が低いところがたくさんありますが、どんどん活躍できるんだよと伝えたかったのではないかな。

━━━ ホクレアの中でも昔に比べてそういう空気の変化がありますか?

TA いえ、ハワイの文化の中では、女性の役割、男性の役割ははっきりしているけど、女性を下に見ることはないです。カウイラニ・ポマイが素晴らしくて、みんな彼女を尊敬してるからなのか、もともとそうなのかはわからないけれど、私がホクレアに関わり始めた頃からずっと女性だからと低く見られたり差別されたことは一度もないし、お互いをリスペクトしている雰囲気があります。

KA あと往路はレフアがキャプテンとナビゲーターを務め、帰りのレグはナイノアがキャプテンではあったけれど、クルーの一人ひとりがキャプテンとして動けるようなトレーニングをしました。

TA 今回の航海は本当にメンバーのバラエティーがすごい。キモのように80年代から航海しているベテランもいれば世界航海の時はまだ中学生だった子供達が成長して船に乗っている。そしてそういう若者たちはみんなハワイ語も流暢に話すんです。若い世代が誇りを持ってこのプロジェクトに関わっていて、これから先も何十年と続けていける。だからこそナイノアはナビゲーターの育成に力を入れているんだと思います。20代の子供達のやる気はすごいです。

━━━ 今回のタヒチへの航海で感じたことは?

TA 個人的なことではハワイに近づいた頃、ウオッチキャプテンをやったんです。ナイノアがやるかって聞いてくれて、ちゃんとできるかどうか不安もあったけれどやりました。具体的にはビッグアイランドに到着し、そこからオアフに帰る時キャプテンを任されて、港でカヌーの方向を変え、エスコートボートにトウロープで引っ張ってもらう・・・そんなシンプルな作業なんですが、自分がキャプテンとしてみんなに指示するなんてことはやったことがなかったのでできて嬉しかったです。

2014年に航海に参加したときは右も左もわからずに、とにかく言われたことをなんとかやるって感じで一杯いっぱいだった私が、全体を見て判断をするようなことをやれと言われた時に、やります!と言えただけでも成長したのかな?

KA 私は日本にいてホクレアと疎遠になっていたから、最初は感覚をとりもどすのが難しかったんです。世界航海にいなかったし、やり方も変わっていた。初めましての人も多かったし、クルーとの信頼関係を作るところから始めなくてはなりませんでした。言われたのは、私の役目はベテランと次の世代の橋渡し的なこと、先輩方の智慧や経験を伝える存在になって欲しいと。今回の航海は準備もバタバタでクルーも最後まで決まらなかった。セイフティーキャプテンのアーチー・カレバなど出発24時間前にお声がかかったって言ってました。

今回の航海は若い世代のサポート役という感じもありました。行きは特に。航海術を伝えたり、サポートしたり。帰りは突如今までやったこともない、そして得意でもない動画を撮ってプログを編集する役を与えられ、それをインターネット上にアップするなど、ほんとに船上でやりながら学ぶという感じでした。でも海の向こうで気にかけてくれる人たちにもっと届けられるかなとがんばりました。航海中にはいろいろと大変なこともあります。一人だったら、あるいは自分だけのことだったらもう無理って言ってたかもしれないけど、人間って人のためには余計にがんばれるものなんですよね。自分だけのためだったらここまで頑張りきれないなって思うことはよくありました。

人間は海がなければ生きていけない

━━━ 航海を終えて、また年か2023年から始まる環太平洋航海に向けてどんな気持ちですか?

TA 日本を航海している間にぜひ、Ocean Learningとかのプログラムをやりたいです。特に故郷の沖縄の人たちと海をつなぐプログラムをやりたい。それがホクレアを始める最初の目的でもあったんです。時間はかかっちゃって、かなり回り道したけど、それは最初からやりたいと思っていたことなので実現させたい。

KA タヒチからまだ帰ってきたばかりで全然消化できてないのですが、本当に生命を支えている地球、宇宙を目の当たりにした思いでした。奇跡と言える自然の仕組みをカヌーを通してシェアしたいなと思います。大海原がやっている仕事、赤道を超えて南太平洋で大気が上がっていって雨になり、また循環する。地球のエンジンシステムとも言える壮大な仕事をしているんだと心底感じて、これはどんなに人間が頑張っても到底叶わない。生命を支えるすべての仕組みというものに対して敬意が湧いてくる。今までだって海の大切さをわかっていたつもりだけど、本当に海がなければ生きていけないということをあらためて実感しました。

ホクレアのプロジェクトはどんどん大きくなっていき、ナビゲーターでありキャプテンとして中心人物のナイノア・トンプソンはPolynesian Voyaging Societyの会長でもあるので多忙。彼はホクレアを存続させ、次世代を育てていくことがクリアナ(彼が生きている間の役割義務、ライフワーク)だと思っているから、純粋に航海だけをやっているわけにはいかなくなっているそうです。でも元々ホクレアはマウ・ピアリッグの教えにナイノアが命を吹き込んだもの。70年代の航海では30日かけてタヒチにたどり着いたのが、今はわずかぬ17日。航海術もナイノアだけでなく、おそらくすぐにできる人が5人、そして10人くらいがナビゲーターになれるような状況まで成長しています。航海中もナビゲーターにお任せというよりは一人ひとりがそれぞれ星を見たりして確認し、今まで学んできたことを実際に確認しているというプロセスをふみ、実践に活用できる経験を積むことができました。

◎インタビューを終えて
ナイノアたちが、70年代からはじまって、もう何度も何度もタヒチまでの航海を繰り返してきたことで、5,000キロの壮大なとてつもない航海でも行けるものなんだと思えるようになっきている。繰り返し航海を続けていくことでkealailaikikiと呼ばれる海の道が見えるようになる。先にやってる人がいるんだからできるだろうって思える。やり方さえ学べばできる、繰り返し行き来できるんだと。使うことを禁止されていたハワイ語を流暢に話す若者たちが増え、ハワイの文化と伝統を継承しようとしている・・・なんて素晴らしいことだろう。遠く離れていたハワイとタヒチはカヌーで繋がり、オハナとしてお互いが繋がっている。ホクレアはindigenusとscienceを融合させながら、しっかり未来を見据えて航路を定め、私たちに希望を与えてくれている。(岡崎友子)