創刊1周年 特別寄稿
エディ・アイカウ――
友のために自らの命を捧げる、大いなる愛の持ち主
失われつつあった古代ポリネシアンの叡智と誇りを取り戻すために
ハワイでその名を知らぬ人はいない伝説のウォーターマン、エディ・アイカウ。
10メートルを超える大波を乗りこなし、ライフガードとして数えきれない命を救い、若くして伝統航海カヌー「ホクレア」へ自らの命を捧げたエディ。「真のウォーターマン」として語り継がれ、今も、多くの心に深く刻まれるエディの物語を辿ります。
オアフ島、ノースショア。冬のうねりが生み出す巨大な波が、世界中のサーファーを魅了するその地で、とりわけ大きな波が立つスポットとして有名なのが、ワイメア湾です。1967年、当時20歳だったエディは、そのワイメア湾で、12メートルの大波に向かって、パドルしていきました。エディはその日以来、ワイメア湾の大波に夢中になり、一番大きく、一番危険な波に乗っては、周囲を驚かせました。
やがてエディは、ワイメア湾で初のライフガードとなります。ライフガードになる前から、すでに海で多くの命を救い出していたエディは、卓越した救助活動を続け、彼がライフガードを務めた10年間、ワイメア湾では、誰一人として命を落とすことはありませんでした。
1975年、ハワイで伝統航海カヌー「ホクレア」が建造されます。「ホクレア」は、太平洋の真ん中に浮かぶハワイ諸島を最初に見出した、古代ポリネシアンの叡智を探求するために建造されました。かつて人々は、航海カヌーに乗り、星や自然のサインを読み解きながら、大海原を自由に行き来していた、と神話や伝承には語られるものの、そうした伝統はすでに失われ、ハワイの人々は自分たちの文化に誇りを持てずにいました。ホクレアは、1976年、ハワイからタヒチへの伝統航海を見事に成功させ、ハワイのみならず、ポリネシア全域の伝統文化がその息吹を吹き返す大きなきっかけとなりました。
1978年、ホクレアは再び、タヒチに向けた航海を行うことになります。ホクレアのビジョンに魅了されたエディは、何としても関わりたいと願い、クルートレーニングに参加しました。そして彼はタヒチ航海のクルーに選ばれます。
真夜中の海を漂流する15人のクルーの命を助けたいという強い思い
1978年3月17日。エディは31歳。他15人のクルーと共に、オアフ島で出航の準備をしていました。その日、オアフ島には、25〜30ノットはある強風が吹きつけていました。悪天候が予想されていましたが、ホクレアは予定通り、出航することになります。
しかし、出航からたった5時間後、ホクレアに悲劇が襲います。
ホクレアは、大波でせり上がっては、海にガーンと叩きつけられながら進んでいました。すでに日は落ち、あたりは暗闇に包まれていました。カヌーの異変に気付いたクルーがハッチカバーを開けると、船体の片側に、大量の水が溢れこんでいました。バランスを失ったホクレアは、うねりに押され、転覆します。真夜中のことでした。16人のクルーは、転覆したカヌーの底にしがみつき、何とか命を取り留めます。
強風が続き、互いの声を聞くこともできませんでした。伴走船もなく、無線もつながらない。交信する手段を断たれたホクレアは、自分たちがどんな状況で、どこにいるのか、誰に知らせるすべもないまま、真夜中の海を漂流する他ありませんでした。
16人のクルーは、暗闇の中、逆さまになって海に浮かぶホクレアに掴まり、助けを待ちました。明け方になるころには、多くのクルーが疲労し、身体も冷え切ってしまっていました。
頭上を通る飛行機も、転覆したホクレアに気づくことなく、飛び去っていきました。ラナイ島はまだ見える距離にあったものの、強い風と潮流に押されて、ホクレアは沖へ沖へと流されていました。
エディは、ホクレアがさらに沖へと流され、クルー全員の命が危ぶまれていることを察し、サーフボードでラナイ島まで助けを求めにいきたいとキャプテンに申し出ます。
大海原でホクレアを離れることの危険を理解していたキャプテンは、エディの申し出を3度、却下します。しかし、エディは申し出を続けました。その後も飛行機に見出されることはなく、沖へと流され続けながら、時間だけが経過し、クルーの体力も限界に達していました。ついにキャプテンは、エディに望みを託すことにします。
エディは、サーフボードに乗り、ラナイ島へ向けて漕ぎ出しました。
やがてまた夜になり、飛行機の音が聞こえてきました。残されたクルーは、急いで照明弾を取り出し、打ち上げます。雲の間から上がっていった照明弾は、飛行機のコックピットの目の前で光りました。飛行機はまっすぐにホクレアに近づいてきてライトを点滅させると、ホノルル方向に飛んで行きました。しばらくして、救助のヘリコプターが到着し、カヌーに残ったクルー全員が救助されます。
ヘリコプターでオアフ島まで搬送されたクルーはそこで、エディがどこにも辿り着いていないことを知らされます。
エディの夢を諦めるわけにはいかない。ホクレアの航海は、願望から使命へと変わった
すぐにエディの捜索が開始されました。エディへの愛の大きさを示すように、数え切れない人々が力を合わせ、必死の捜索が続けられました。誰もが望みだけは捨てていなかったものの、日が経つにつれ、焦りの色を隠すことはできませんでした。
そんな時、エディの父親が皆を集めて言います。
「もう止めよう。息子を探すのを止めてくれ。あの子を海と共にいさせてやってくれ」、と。
エディの弟は、後にこう話しています。
「今頃、どこか小さな島にたどり着いて、20人くらい子供を作っているといいなと思っている。記憶喪失で、幸せに暮らしているって」
さらに彼は言います。
「何があっても、エディは行っていたよ。誰のせいでもない。あいつを止めることは、絶対に誰にもできなかった」
同じく航海に参加し、航海師の役割を務めていたナイノア・トンプソンはこう語ります。
「僕たちは過ちを犯しました。あの航海は、計画も十分でなく、クルーもしっかりトレーニングされていませんでした。悲劇を導く材料が全て揃っていました。でもあの事故が、全てを変えたのです。エディの事故があった後、僕たちは二度とホクレアの航海はしないと決めることもできました。けれど、それではエディの夢を叶えることができない。彼は出航の前、僕に言いました。“島を見出してくれ”と。エディはホクレアの航海が、ハワイの人々が自らへの誇りと尊厳を取り戻すきっかけになる、と信じていました。ホクレアが航海を止めることは、エディの夢を、志半ばで諦めることでした。
エディを失った時、ホクレアの航海は、願望から使命へと変わったんです。彼が思い描いていたことを、必ず実現させる、タヒチへの航海を成功させて、ハワイの人々に誇りと尊厳を持って帰る、と心に決めました」
ナイノアはさらに続けて言います。
「エディの悲劇は、僕たちのしようとしていることがどれだけ危険なことなのかを教えてくれました。そして僕たちが、身体的にも精神的にも、どれだけ準備ができていなかったかを教えてくれました。僕たちは自分たちが、どれだけ分かっていないかを思い知りました」
2度目の出航の夜、エディがハワイの星座になって勇気づけてくれた
ホクレアのクルーは、エディを失った航海から、新たなトレーニングを繰り返しました。
ナイノアも、ミクロネシアの伝統航海術師マウに師事し、ハワイで初の伝統航海師としてのトレーニングを重ねました。
1980年3月、ホクレアは再びタヒチに向けて出航することになります。
エディを失った航海から2年の歳月が経っていました。
ナイノアは、航海を成功させるために、想像を超える期待と責任を背負っていました。
当時を振り返って彼は言います。
「僕はプレッシャーに押しつぶされていました。出航した後もなお、心は落ち着きませんでした。けれど、堤防を越え、目の前に大海原と水平線が広がり、夜空に星々が輝き始めたとき、ホクレアの目の前に、「カマカウ ヌイ オ マウイ(マウイの大釣り針)」が姿を現したんです」
マウイの大釣り針は、エディを失った後、ハワイの人々が彼に捧げたハワイの星座です。ハワイの神話では、半神マウイが、神秘の大釣り針を使って、ハワイの島々を釣り上げたと語られています。
「エディは、水平線の彼方のタヒチを見出したかった。島を釣り上げたかった。ハワイの誇りを取り戻したかった。航海が始まって、一番はじめに目にした星座が、エディに捧げた星座だったことは、本当に特別でした。それは目の前で輝き、僕に、“大丈夫”と言ってくれていたのです」
ナイノアは、エディへの想いを胸に、ホクレアを無事にタヒチへと導きます。
その後、ホクレアは40年以上に渡って、数々の航海を成功させてきました。その航海は、ハワイ文化復興の大きなきっかけとなり、今日、多くの若い世代が、祖先の偉大さに誇りを持ちながら、その叡智を現代に当てはめ、活躍しています。
ホクレアの船体には、エディへ捧げる碑が掲げられています。
「エディ・アイカウ - 友のために自らの命を捧げる 大いなる愛の持ち主 」
水平線の彼方の“島”を思い描き、次世代に手渡す世界を見据え、生きる。愛する島、愛する人々のために、どこまでも自らを捧げていく。エディの遺した在り方は、今も、人々の心の礎となり、未来への航海を導き続けています。
文・写真◎内野加奈子(うちの・かなこ)
伝統航海カヌー「ホクレア」日本人初クルー。歴史的航海となったハワイ―日本航海をはじめ、数多くの航海に参加。ハワイ大学で海洋学を学び、自然と人の関わりをテーマにした執筆活動、絵本制作に携わる。著書に『ホクレア 星が教えてくれる道』(小学館)『星と海と旅するカヌー』『サンゴの海のひみつ』(きみどり工房)など。