WATERMAN'S TALK

The King
ウインドサーフィンほど
素晴らしいスポーツはないよ

今月のウォーターマン
2022年3月22日
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PROFILE

  • ロビー・ナッシュ

    Robby Naish
    プロウインドサーファー

賞金総額25万ドルのW杯が日本で開催された時代があった

WATERMAN’S TALK(今月のウォーターマン)は、毎号一人のWATERMANを紹介していく連載企画です。WATERMANの一般的な定義はありませんが、ここでは「海が大好きで、海に感謝の気持ちを持ち、海の窮状を目の当たりにして、海のために何か行動を起こしている人物」とします。記念すべき第10回はウインドサーファーなら知らない人はいないロビー・ナッシュ氏です。

13歳の時にワールドチャンピオンになった彼は、それから何年にもわたり連続でチャンピオンであり続け、現役を退き、ツアーに出ることをやめた現在も、唯一無二の「キング」と称えられるウインドサーフィン界の象徴的な存在です。常にウインドサーフィンの最前線に身を置く一方で、新たに生まれるスポーツのパイオニアとしても深く関わり続けることで、ビジネスの世界においても、彼の名を冠したナッシュブランドは全てのオーシャンボードスポーツをカバーするマルチスポーツブランドとしての地位を確立しています。アスリートとして、ビジネスパーソンとして成功を収めてもなお、コアなウオーターマンとして活動を続ける彼の原動力、そしてその目的は何なのか?偉大なる「キング」には、聞きたいことがありすぎていくら時間があっても足りませんが、時間が許す限り多くのことを語っていただきました。

━━━ 13歳でワールドチャンピオンになってからもう50年近く経ちますが、まずは簡単にあなたのバックグラウンド、ウインドサーフィンに出会ったきっかけを教えてください。

私はハワイ・オアフ島のカイルアで育ったんですが、自宅はビーチまで歩いて行ける距離だったので、小さい頃は、放課後は毎日海に行ってはスキムボードなどで遊んでいました。サーフィンを始めたのは8〜9歳の頃、初めての自分のボードはサーフラインハワイのものでお小遣いを貯めて買ったのを覚えています。ウインドサーフィンを始めたのは11歳の時、当時カイルアでもウインドサーフィンをする人が現れはじめ、それを見てボードを貸してもらったり、父の影響もあって始めました。

13歳でワールドチャンピオンシップに行って優勝したのが76年のこと、以後4年連続で優勝しました。全てウインドサーファーというストックボードでの大会。父がサーファーでシェイプもしていたのでウインドのカスタムボードも作るようになり、それを使ってのレースがハワイでもスタートしました。パンナムカップが開催されたのが70年代後半から80年代前半、初めてプロの賞金付きのコンテストが開催されたのが81年、さらにアーノルド・ロズネーがオーガナイズしたマウイからモロカイを往復する海峡横断レースなど、今までプロとしてありとあらゆる大会に出たり、プロモーションをしたり、一か所に留まることなく動き続けてきたよ。

━━━ あまりに長いキャリアの中で印象に残っている思い出を選ぶのは難しいと思いますが・・・

あまりにいろんなことがありすぎたからどれが一番と決めるのは不可能だよ。たとえば日本に限定しても頭に浮かぶ思い出深いことがたくさんある。そして素晴らしい出会いもたくさんあった。日本は私にとって最も印象に残る外国だよ。

日本に初めて行った時はかなり衝撃的だった。84年だったと思う。新島で開催されたジャパンカップという大会に出るために、もう今はどうなのかわからないけど、当時は小さな船に選手も荷物も全て一緒に、揺れに揺られて島に着いた。島はとてつもなく田舎で何にもなかった。あるのは大きなうねりだけ。島の人は外国人を見るのが珍しかったのか、びっくりしている感じだったけど、みんな親切だったよ。その中でその海面に全く適していないラウンドボトムのレース艇で競い合ったんだ。でもいい思い出だよ。

何しろ自分も若かったし、当時日本という国はとてつもなくエキゾチックに感じていた。実際、目に見えるものも、しきたりも、ハワイとは違うし何もかもにワクワクしたよ。たとえば当時は最新の電化製品は全て日本製だったから行くたびに秋葉原で色々買い込んでいた。ステレオとかね、ミニコンポを買った時のこともよく覚えている。当時ミストラルのボードを輸入していた三井物産で働いていたまろさん(現ナッシュジャパンの入来麿氏)と知り合ったのもその頃で、それ以来日本に行くたびに彼がフルサポートしてくれている。彼の結婚式にも行ったし、今ではナッシュジャパンをやってくれている家族みたいな存在だ。ついこないだも彼の誕生日に電話で話をしたところだよ。彼のおかげでナッシュは日本でいいイメージをキープし続け、信頼関係が仕事をやりやすいものにしているよ。私が日本を好きなのも彼の存在が大きいよ。日本に行くのはいつでも楽しみなんだ。

あと日本というと、衝撃的だったのは自動販売機。田舎でも道端にマシーンが3つ置いてあって、一つは清涼飲料水やビール、もう一つはカップヌードル、それから滋養強壮ドリンクが売っていた。あんな機械がアメリカにあったら1日で壊され、中にあるお金が盗まれてしまうよ。日本人が正直者でいい人たちだっていうことの証に思えたよ。

━━━ 最高額の賞金を誇るW杯の大会が日本で開催されていた時期もありましたね。

そう、御前崎W杯はレース、スラローム、ウエイブの3種目で賞金総額25万ドルだった。今では考えられないよ。そして見に来る観客の数も史上最大だった。何万人もの人がわざわざ遠くから見に来ていた。御前崎では他にはないようなチャレンジングなコンディションの中で闘ったけど、それもいい思い出だ。レースボードに3.7mのセールを使って大荒れの海に出て行ったよ。30メートル吹いていて歩くのもままならない強風だったのに。

 
 

ウインドサーフィンは、自分の根本の部分を感じさせてくれる

━━━いろんなハードコンディションの中でウインドサーフィンをしてきたと思いますが、もうだめだ!と思うほど怖い思いをしたことはありますか?

そんなにはない。私はあまりイケイケなタイプではなく、計算して着実に行くタイプだから。とはいえチャージしないわけではないし、どれだけ準備をしていても思いがけない危機はやってくる。今までで一番怖いと思ったのはジョーズでウインドサーフィンをしていてワイプアウトした時のこと、ものすごい巻かれ方をして引きずられ、何度も分厚いスープがやってきて、その度に潜るけど潜ったって逃れられる大きさじゃない。何度か巻かれながら、なんとかチャンネルの方に向かおうとふらふらになった頃、ウエストボールが割れる位置に自分がいて、そこで巨大なチューブを巻いた波に巻かれて本当に長い時間上がってこられなかった。この時はこれで終わるのかなって思ったね。頭の中に星がチカチカ光ってたよ。

あとは大腿骨を骨折したとき、6年前のことだね。これまで大した怪我もなくやってきたのに、初めて大怪我を経験した。シークレットというポイントでジャンプの撮影をしていて、ものすごい勢いで変な風にランディングした。前足がフットストラップから抜けないまま股が割れるような状態で落水したんだ。自分が引き裂かれたような痛みが走ったのは覚えている。その痛みで気絶したくらいだ。治るまでに6ヶ月かかった。その期間は痛みというより精神面で辛かったね。それまで動けなくなることはなかったし、ちょうど私生活でもビジネスでも難しい時期で色々悩んでいたこともあり、メンタルでやられかけたよ。でも今はもう全てオーケー。あの怪我や辛い時期にも意味があって今の安定した状態があると思えるようになったよ。

━━━あなたは全てのマリンスポーツに長けていてウォーターマン中のウォーターマンと認められていますが、あなたから見るウォーターマンとはどのような人物のことでしょうか?あるいはウォーターマンを定義するとしたら?

私は自分のことをウォーターマンだなんてあまり思っていない。私にとってウォーターマンというのはもっと外洋のことも知り尽くし、岸近くの海だけでなく、海全体を理解し、その中でスキルを発揮できる人、例えばセイラーとかダイバーとかそんな人を思い浮かべる。自分はどちらかというとウォーターマンではなくボードライダー、海の端っこの方で板を使ったスポーツで遊ばせてもらってる人間だよ。

正直言ってボートを買って海の上で生活したいとか思ったこともない。どちらかというと私は陸に住んで、海は自分の遊び場という感覚。まだまだウオーターマン、海と共に生きていると言うには程遠いよ。

━━━ほほー、なんとも謙虚な自己評価だと思いますが、その謙虚さがあるからこそ、海と関わってきて学ぶことも多いのでしょうね。何十年もこの業界に関わってきてアップダウンを色々見てきたと思いますが、今後のウインドサーフィンはどうなっていくと思いますか?

私にとってはウインドサーフィンの道具で海に出る時はいつもBack to the rootsという感情がある。自分の根本の部分なんだ。多くの人はウインドサーフィンが廃れていって消滅しかかっているというけれど私は全くそう思っていない。経験からいってもウインドサーフィンほど素晴らしいスポーツは他にはない。今、色々生まれている新しいスポーツだってウインドサーフィンがあったからこそ生まれたもので、それに夢中になってる人たちも、ウインドサーフィンをやってみると新鮮な気持ちであらためてウインドサーフィンの素晴らしさを感じると思う。

時間も労力もお金もかかるので、全ての人に最適なスポーツではないかもしれない。でも本当に夢中になって続けていく人はこれからもいるだろうし、若い世代でもウインドにハマっている子はたくさんいる。私も今でもウインドサーフィンが何よりも好きだ。自分がやりたいことだけをやっていたら、きっとウインドサーフィンをする時間は今の何倍も増えると思うけど、このビジネスをやってる関係で、他のスポーツギアの開発やプロモーションにも時間をかけなくてはならないからそこまでやれていないけど。サーフィンほど大きく発展しなくても、ずっとずっと長く続いていってほしいと思ってるし、業界がしっかりしてればそうなると思ってる。

 
 

海に入るだけで、きっとハッピーな気持ちになれるよ

━━━ナッシュというブランドはどういう形でウインドに関わっていきたいと思っていますか?あるいはどのようなポジションでありたいと思っていますか?

ナッシュはウインドサーフィンをリードするブランドであり続けたいね。最初はセールだけを作っていたんだ。1999年に最初の大きなブランドとしてカイトを売り出すようになり、そこから大きく展開するようになっていった。その数年後にウインドサーフィンのボードを作るようになって、ウインドサーフィンの全てのギアをナッシュで揃えられるよう総合的なブランドにしていった。と同時にカイトボードも作るようになり、追いかけるようにしてスタンドアップパドルが登場し、それからはサーフボード、フォイル、ウイング、と僕らを追い立てるようにいろんなものが生まれ、多くの人のニーズをカバーできるクオリティーの高い製品を作るために大忙しであっという間に時間が過ぎていったよ。

━━━ナッシュというブランドが掲げるポリシー目標はなんですか?

海ではいくら他の人がいたとしても最終的には自分の身体ひとつ、自分だけが頼り。陸でのしがらみや義務、いろんなことから離れて波と風に乗ることに集中することでクリアーになれる。それがハッピーな状態を自分にもたらす鍵だと思うから、そういう機会を多くの人に提供できるブランドでありたい。上手くなればなるほど楽しいし、何より大事なのは海や水に入ること、それだけで純粋にハッピーになれるといこと・・・何十年もこの業界に関わってきてそれだけは確信してるから、多くの人をハッピーにできるようなギアと環境を提供していきたいと思っている。

━━━座右の銘を教えてください。

Every day in the water is a good day.

今この時代には今まで以上にこの言葉が重くのしかかる。世界でいろんなことが起こっていて、生きるのに精一杯だったり、今まで当たり前だと思っていた生活が全て壊されて、身体ひとつで逃げている人たちもいる。そんな中、海に入るだけでも、自分の心身の不純物を洗い流し、いいエネルギーで満たされることができる。私たちは、その幸運を心から感謝しなくちゃいけないね。

━━━読者に対するメッセージはありますか?

私と違う意見の人もいるだろうけど、私はあまりに電波につながり過ぎている現代の生き方は人間にとって健康的ではないと思っている。SNSは世界中の情報がすぐ手に入る環境を生んだけど、それで自分がロンリーでなくなっただろうか?一人で写真を撮り続けることで自尊心が高まっただろうか?私はこれのせいで本来の自分とのギャップが生まれたり、余計に孤独を感じる人が確実に増えたと思っている。

もっとSNSを通してではなく、本当に自分の内側を見つめ治し、自分の良さを認め、愛することに時間を費やすべきで、SNSの情報が与えるこうあるべきというものにとらわれないでほしい。それには海に出ることが一番だと思う。ハッピーになるためにSNSよりウインドサーフィンを選ぼう。

 
 

◎ インタビューを終えて
今まで世界中を飛び回っていた生活がコロナ禍の2年間ほとんど動かずにいたけれど、この春くらいからまた旅が増えてくる予定だと嬉しそうに語ってくれたロビーさん。「5月に開催されるスペインのタリファで、ディーラーズミーティングを筆頭にブランドとしても自分にとってもいろんなエキサイティングなことが待ってるんだ。ナッシュはこれからも世界中にいろんな形で海の楽しみ方を提供し、そのどの分野でも最前線、最新のものを産み続けるよ!」とまだまだ落ち着くどころか動き回ることにワクワクしている様子でした。
還暦を前に全く年齢のことなど考えてもいない彼は、ジョーズの波に乗り、誰よりも早いスピードでウイングで海面を突っ走り、ナッシュライダーのキッズと共にプッシュしあいながら、ギアテストをする毎日。そのオーラは輝きが鈍るどころか増していくばかりです。