CULTURE

「これも“のさり”たい」
再生の海、水俣に生きる漁師一家の物語

DIALECT
2022年3月22日
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思いがけずもたらされた恵み「のさり」

熊本県の南端に位置する水俣市。西側には穏やかな内湾の不知火海、そして三方は山々に囲まれた自然豊かな場所です。平地が少なく海と山が近いのも特徴で、その立地から山の豊かな栄養分が海に注がれ、魚(いお)湧く海と呼ばれるほど豊穣な海でした。

しかしその恵まれた環境が、人間の手によって奪われるという悲劇が起きました。水銀が混じった工場廃水を、未処理のまま海に垂れ流したことによって起きた水俣病。それは1930年代から30年以上という長きにわたり続けられたのでした。水銀被害により、人びとの命が奪われ、健康が奪われ、漁師という仕事も奪われてしまった水俣のひとたち。このとてつもない苦難を乗り越えるために、ある漁師一家が見つけたすべは、恨みや憎しみをぶつけることではなく「のさり」と思う心でした。

「のさり」とは思いがけずもたらされた恵みのこと。水俣の漁師たちは、「今日はのさったね」「のさらんだったね」など、日々の恵みに感謝の意を込めて口にすることばです。

「今日はのさったね。こげん魚ばとらせてもろうて」

私が、シロゴ(しらす)漁を営む杉本さん家族の船、快栄丸に初めて乗せてもらったのは2002年夏のこと。水俣病認定患者である父、雄(たけし)さんと母、栄子さん、そして長男の肇(はじめ)さん、四男の実(みのる)さんの親子4人3曹でおこなう漁です。漁労長である実さんが乗る船で、シロゴいわゆるカタクチイワシの稚魚を探します。魚が見つかるまで、雄さんの乗る船と、栄子さん肇さんが乗る船はぴったりと舫ったまま。漁場が決まると、網が勢いよく海に投げ込まれ2曹ははるか遠くに離れていきました。1時間ほど網を引きいよいよ水揚げの時。網が巻き上げられていくと、離れていた2曹がふたたび寄り添います。すると、手繰り寄せられた網の中でたくさんの魚がピチピチ跳ねているのが見えました。

「今日はのさったね。こげん魚ばとらせてもろうて」

網をのぞき込み、誰よりも嬉しそうな栄子さんの声が船上に響き渡ります。そして網の中のシロゴをひとつまみ。口にでも運ぶのかと思いきや、

「海の神さん、ありがとうございます」そう言って、つまんでいたシロゴを海に戻したのでした。まるで隣の人にお裾分けでもするかのように。

船から降りると、加工場ですぐさま次の作業が始まります。新鮮なうちにシロゴを水洗いして釜揚げをする、まさに時間との勝負です。みんなが慌ただしく作業を進めるなか、シロゴの水洗いをしていた栄子さんがいたずらっぽく笑い、先ほどのようにまたシロゴをひとつまみ。今度はそのまま自分の口の中へ放り込みました。栄子さんのキラキラした目がさらに輝きを増し

「うまかぁ。撮っとるばっかりじゃつまらんけん、あんたも食べんね」

そう言って、私にも生のシロゴと釜揚げしたばかりのシロゴをそれぞれお皿に分けてくれました。こんなにも美味しいシロゴを食べたのは、生まれて初めてでした。

「水俣病になったとも“のさり”たい」

水俣病の症状で10年近く寝たきりの時代があったという栄子さん。水俣病に効く薬はなく、病院で処方されるのは痛み止めや湿布薬くらいでした。海とともに生きてきた網元の娘が、目の前に変わらずある海を見ながら漁に出られないもどかしさを感じない訳がありません。その果てに出した結論が、

「自分の体ば治すところは、やっぱり海しかなか」でした。

夫の雄さんと手を取り合い、万全とは言えない体でふたたび船に乗るようになりました。波の音や風の音、魚が跳ねる音、鳥のさえずり。海から聞こえてくる楽しげな音に耳を傾けていると、不思議と体が楽になっていくようだったと栄子さんが話していたのを記憶しています。

その後、5人兄弟で一人だけ両親のもとに残った四男の実さんが、会社を辞め両親とともに漁師になることを決意。これを機に三隻一組でおこなうシロゴ漁を、大金を投じて始めたのです。水俣が嫌で嫌でたまらず、高校卒業後すぐに上京した長男の肇さんも、数十年の時を経てふたたび故郷へ。水俣病で奪われた家族の大切な日々を取り戻すかのように、漁を通して過ごす親子の時間がゆっくりと流れます。

船に乗せてもらった日をきっかけに、水俣に行けば杉本さんの加工場にも顔を出すようになりました。この日もふらりと訪ねると、栄子さんがちりめんじゃこの袋詰め作業をしていました。体調が優れないことが多くなった栄子は、漁からのみんなの帰りを加工場で待つようになりました。ちょっと細くなったものの、いつもと変わらないキラキラの笑顔でこの日も迎えてくれました。たわいのない会話の中で口にされた栄子さんの言葉に、どきりとしたことを今でも覚えています。

「水俣病になったとも“のさり”たい。こん病気になったおかげで、いろんな人があたしの話しば聞きに来なさる。今まで知らんかった人に会えるとも、のさり。あんたと会えたとものさりたい」

はたから見れば災難ともとれることさえ“のさり”と受け止め、その先にある幸せを見出す強さに、ただただ頭がさがる思いで返す言葉も見つかりませんでした。

それから2年後、栄子さんは69年の生涯を終えました。いつも一緒だった夫の雄さんも7年後、栄子さんのもとへと旅立ちました。

生前、夫婦それぞれ水俣病資料館で語り部として、ときに涙が出るほど辛かった経験を多くの人に伝えてきました。その姿を見て「辛かことを思い出さなんことば、母ちゃんはなんでするとだろうか」そう言っていたという肇さん。二人亡き後、その肇さんが語り部を受け継ぎました。

人が生きていく中で、ときに感情が大きく揺り動かされることもしばしばです。嬉しいこと、楽しいこと、悲しいこと、苦しいこと、腹ただしいこと、妬ましいこと…

それらすべてを「のさり」と受け止めていくことができたら、人生がもっと楽しく、もっと豊かになるのかもしれない。天国の栄子さんが、そう教えてくれているようです。

 
 

文・写真◎尾崎たまき(おざき・たまき)
熊本市出身。19歳のとき天草の海でダイビングを始め、海の持つ力強さや生きものたちの健気な生きざまに感動。地元の撮影スタジオで広告写真を撮影する傍ら、独学で水中写真に取り組む。本格的に水中写真を学ぶため上京。水中写真家・中村征夫氏のもと11年間研鑽を積む。2011年よりフリーランス。ライフワークである水俣、三陸、動物愛護センターなど、人といきものの関わりなど命をテーマに撮影に取り組む。