WATERMAN'S TALK

No foot , no hand, no problem !
困難を糧に成長し続ける
アダプティブサーファー

今月のウォーターマン
2022年1月22日
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PROFILE

  • ジョッシュ・ボーグル

    Josh Bogle
    アダプティブサーファー

スノーボードでの度重なる怪我をきっかけに、障がい者に

WATERMAN’S TALK(今月のウォーターマン)は、毎号一人のWATERMANを紹介していく連載企画です。WATERMANの一般的な定義はありませんが、ここでは「海が大好きで、海に感謝の気持ちを持ち、海の窮状を目の当たりにして、海のために何か行動を起こしている人物」とします。8回目はアダプティブサーファーのジョッシュ・ボーグル氏です。

実は、彼はまだサーフィンを始めてわずか4年。普通ならビギナー、せいぜい中級程度のレベルですが、去年のアダプティブサーフィンのアメリカの全国大会では優勝しています。

元々プロスノーボーダーを目指していたジョッシュ氏は、これまでに数多くの困難にぶつかり、生きる気力を失いかけたこともあるそうですが、そんな彼を救ったのは海、そしてサーフィンでした。サーフィンを追求していく過程で海から学んできたことは「手足を失わなかったら得られなかった財産」だと言います。謙虚な姿勢で海と向き合い、この数年で誰もがびっくりするほど多くのことを成し遂げてきた彼から、私たちはできないことを言い訳するのではなく、できることを信じて努力し続けることの素晴らしさを教えられます。サーフィンのマスターではないかもしれないけれど、ジョッシュ・ボーグル氏はウォーターマンとして認めるべき存在の一人です。

━━━ 初めて会ったのはジムだったと思います。私が汗だくになって必死にやっていたプログラムを、膝から下を失ったあなたが一緒になってこなしているのを見て感動し、握手を求めたら手もなかったことに、さらにびっくりさせられました。

Facebookを見たらマウイとは関係ない共通の友人がびっくりするほど多くて、その話をしたら同じ時期にジャクソンホールで同じ仲間と一緒にスノーボードに夢中になっていたことがわかったんだよね

━━━ そう!元々はスノーボードだったのに、なぜ今はハワイにいてサーフィンをしているのか、経緯を教えてください。

僕はワイオミング州のジャクソンホールで生まれ育ち、両親は夏には何もないウィルダネスで数週間過ごしていたんだ。そこでOutdoor leadership campをやっていて、毎年5週間、NOLESキャンプみたいな感じのプログラムを開催していた。

ジャクソンホールはスノーボードのメッカだったので、11歳でスキーをやめてスノーボードを始め、チームに入って毎週地域のコンテストに出ていたんだ。プロになりたいと思って頑張っていた。

2001年〜2002年のシーズン、ジャクソンでフリーライディングコンテストがあって、アルタゼロ(普段は滑降禁止の急斜面)のケイブというスポットで、できる限りギリギリのところをジャンプしようとした時だった。着地した時に背骨の第4番と第5番の椎間板を潰してしまったんだ。痛かったけどそれでも翌日も大会には出ていたよ。

その後も怪我はつきものだった。チキンスクラッチというランで、シュートを滑ろうとして小さな雪崩に会い、身体は一部しか埋まらなかったけど、頚椎の第5番の神経がやられてしまった。その時に痛み止めの薬を処方されたんだけど、その薬をきっかけに、その後の薬中毒が始まったんだ。いろんな怪我をしたけど、スノーボードをしたくて大会にも出たいから、無理して痛み止めを飲みながらスノーボードを続けていたんだけど、それがよくなかった。

さらに、いつだったかX Gamesに出るためにコロラドに向かっていた時、車を横転させてしまい、肩の骨を砕いてしまった。12か所も肩にビスなどを入れなくてはならないような大怪我だったんだけど、それからさらに強い痛み止めを飲み始めたことから、深刻な薬中毒になってしまったんだ。

━━━ 中毒になった状態というのはどんな感じなのか教えてくれる?

周りには気付かれずにごまかせていたけど、自分の内側は最悪の状態だった。見た感じは限りなく普通に生活していたよ。コーヒーショップで働きながら、そこのアシスタントマネージャーをやっていたし、レストランの調理場の仕事やバーテンダーもやっていた。痛み止めを飲み続けながら三つの仕事をこなしていたんだ。12時間働きっぱなしでも平気だった。ただ自分の内側に、悪魔が住んでいるような感じを覚えていた。

自分に自信がなくて好きになれず、コミュニケーション障害に悩まされながら、誰にも心を開くことができなかった。みんなとパーティーとかに行っても楽しめず、鬱、孤立感、パラノイアがひどくなって友達を誰も信用できなくなった。

今思うと、両足を切断し、寝たきりでいた時も辛かったし、もう死にたいと思ったけど、その時よりもっともっと暗い闇でもがいているような時期だった。他人の目には何の問題もなく映っていたと思うけど、苦しくて苦しくて仕方がなかったよ。

怪我のために薬を飲み始めてから6年間の間に、1日に摂取する量は5倍に増えていた。いっぺんに大量の処方箋をもらえていたらもっと増えていただろうけど、1週間ずつしか処方してもらえなかったから、それがせめてもの救いだったね。

自分の人生に必要な人が、ぴったりのタイミングで現れると信じている

━━━ 薬の摂りすぎで足を切ることになったの?

直接的にはそうではない、というか足を切ることで、薬を断ち切ることができたと言ったほうがいいかもしれない。

2010年に喉頭炎にかかり、バクテリアが歯から心臓に入ってしまった。そのため心臓手術をしなくてはならなくなった。歯も抜かなければならなかった。その手術の時に間違った血を輸血されたんだ。ひどい状態でその療養のためにマウイにいたんだけど、今度は母と一緒にクジラのウォッチングに行った時に釣り針を踏んでしまい、その小さな傷が化膿し、4日目には化膿がひどくなって、その後僕は気を失い、意識のないまま病院に運ばれた。その時にはすでに内臓が機能しなくなっていて、昏睡状態が17日間も続き、ほんとにいつ死んでもおかしくない状態だった。

過去の中毒、エネルギーの低下、精神的な鬱など複合的な要因で化膿しやすい体質になっていたらしい。僕の体はギブアップするか、もうちょっと踏ん張って生き続けるかの選択に迷っていたんだと思う。でもまだ頑張ろうと決めたみたいで昏睡状態から目が覚めた。

目覚めたらマウイの病院の窓から海が見え、豪華客船が浮かんでいた。その時ほど神様の存在を意識し、自分が救済されたという気持ちを感じたことはなかったよ。本当に素直に感謝の気持ちで一杯になった。でも実はそこからまた本気の闘いが始まったんだ。

━━━ そこからリカバリーに至る話を聞かせてください。

まずお医者さんから、今のまま薬を摂取していたら体がもたないと警告され、足の切断と同時にできる限り薬の量を減らすリハビリもしなくてはならなくなった。でも手術後は痛みがひどいからすぐに薬を断つことはできない。体のリカバリーと中毒からのリカバリーを一緒にやる感じで大変だったよ。薬のせいで体はボロボロだったので、手術もいっぺんにするほどの体力がなく、4ヶ月かけて少しずつ切断していったんだ。そのおかげで2013年には薬の量も目標量まで減らすことができた。この時はすごい達成感だったよ。でもやはりまだ体力も治癒力も弱く、心臓が何度もトラブルを起こした。同じ年に心臓の人工バルブが機能しなくなったんだけど、僕には体力がなく半年も手術を待たなくてはならなかった。

ドクターから、僕は一生車椅子で、一生ケア・テイカーが必要だろうと告げられ、退院してからは、とにかく車椅子でずっと家にいた。母に全てをやってもらうこと、彼女が自分の人生を送らずに、息子の人生の世話をしなくてはならないと思うと辛かった。自分で自分のことが何もできない状態で、ほんとに死にたいと思った。足も手もない役立たずの自分、人の世話にならないと生きていけないなんて本当に死んだほうがずっといいって気持ちでいたよ。3ヶ月くらい自分の部屋から一歩も出ないときもあった。母親に自殺と思われずに死ねる方法はないかっていつも考えていた。

不思議なことに僕の犬のマヤは、僕が心臓発作を起こす直前に必ず気がついて、僕や周りの家族にヒステリックにそのことを伝えようとしていることがわかった。そのことに気づいた僕の主治医は、マヤにサポートドッグの正式な資格を与え、常に病院でも手術の時もそばにいられるようにしたんだ。体力が回復せず、手術がいつできるのかもわからず、このまま手術できることを待ちながら死んでいくのかなあと思っていた。この頃が一番ハードだったかな。その後、ようやく手術ができて成功したんだけど、術後5日目に病院で菌が入り、本当に今度こそダメかと思った。昏睡状態の中でいろんな夢を見たよ。でもその中でどれもが自分にはまだ大事なやるべきことがここにあって、そのたくさんの宿題を終わらせないとダメだっていう内容だった。目が覚めた時、僕の心は完全に、絶対に生きていたい、そして薬の中毒になる前の自分、クリーンで健康な自分に戻るためにどんなことでもすると決心していたんだ。そこからは自然療法を取り入れて、とにかく西洋医学の薬を一切取らなかった。全てが前進したかと言えば決してそうではないけど、絶対に元の自分を取り戻すんだという強い気持ちがあったから、ここまで自分を引っ張ってこられたと思う。

━━━ もうここまでに9つの命を全て使い切っている感じですね。※

自分でも、なぜ今自分が生きていられるのかわからないくらいだよ。僕は、自分の人生に必要な人は、自分が求めているときに、ぴったりのタイミングでやってくるって信じているんだ。本当に辛かった時、足や手を失くしても、スポーツをやっている人たちから、たくさんのインスピレーションをもらった。そのおかげで、自分もなんとかして体を治し、中毒から抜け出さなければというモチベーションを持つことができたんだ。

ある日、アダプティブスノーボードの大会を見る機会があり、そこに出場していたエヴァン・ストロングの講演会に行って彼と知り合うことができた。彼はマウイ島出身で、スノーボードでパラリンピックのゴールドメダリストになったんだけど、彼を通して多くの障がいを持つアスリートが前向きにスポーツに取り組んでいるのを知り、本当に生きる力をもらえたんだ。

その後は積極的にヨガを始め、いいものを食べるようになり、エクササイズを始めた。そして2015年にスノーボードチームに入れるようトライし、16年にはアダプティブ・スノーボーディング・ツアーにも参加するようになったんだ。エヴァンとノアは本当にいろんな形で、自分のことのように僕のために動いてくれた。そしてハワイの伝統的なヒーリングプロセス、ホオポノポノもリカバリーのプロセスの大きな一部になった。ジャクソンにあるholistic center 、スピリチュアル・リトリートセンター、ヨガ、スエットロッジにも助けられた。その頃はまだ自分がサーファーになるなんて思っていなかったんだけど、こうした経験を通して海や波に語りかけるようになっていた。

※「9つの命」は「A cat has nine lives」という諺に由来。一般に「なかなか死に至らないしぶとさ」を意味して使われる。

目標は義足をつけて、義足で立ち上がって、波に乗ること

━━━ ではいつサーフィンを始めたのですか?

2017年に自立を目指してマヤと一緒にマウイに引っ越してきた。そして2018年の初めにコーディー・カーボックスにサーフィンを教えてもらった。彼がボードを押してくれて乗った波のことは今でも覚えているよ。その後、エヴァンが家族みんなでマウイにやってきて、ひと夏を僕のところで一緒に暮らし、毎日2ラウンド一緒にホキパやサウスサイドで週5日くらいトレーニングして、家に帰ってからも彼と一緒にトレーニングを続けた。多くのアスリートを支えているトレーニングジム”Deep Relief” のみんなともそのころ知り合ったんだ。マウイが僕の人生を救ってくれた。一番大事なのはやってやるっていう気持ちだったんだ。自分の力なんかより、ずっと偉大な何かが僕を救おうって決心して、溺れそうになってもがいてる僕を引っ張り上げてくれた感じだった。今思うと、だけどね。当時はその日1日1日を生き延びることに必死で、目標としている状態に辿り着けるかどうかなんてあまりにはるか先のことに思えたけど。

━━━ 何が大変でしたか?

頭の中ではどんなことでも可能だとわかっていた。でも体が自分がやりたいことをするには多くのハードルを抱えすぎていた。本当にいくら頑張ってもなかなか自分の目標に辿り着けず、焦る気持ちがあって、ついつい無理してしまうことも多かった。無理して怪我をしたり、レベル以上のコンディションに入ってトラブったりもした。

ここまでくるまでに信じられないほどのステップがあったけれど、それでもその一つひとつのステップがなくてはならないものだったし、数年間の努力がこれから先、ずっと充実したドラッグ抜きの人生を送れるためのものだと考えれば、これほど価値のあるものはないよ。

━━━ 2年くらい前から本格的にコンテストにも出るようになり、波乗りのレベルも驚くほど上達しましたが、今ではベテランでもちょっと気がひけるほどのサイズの波にテイクオフし、スープでなくてフェイスでマニューバーを描いたりしていますよね。そして何より、以前は前乗りに気づいてなかったり、人のラインの邪魔をしてしまったりしていたけど、周りを見ながら動けるようになっていますよね。

生来、思うがまま無我夢中になって行動するタイプだから、休んだり、人に頼み事をしたり、少し抑えて行動することは結構苦手だった。でも今はゆっくり一歩一歩進むことが、実は早道につながることを実感している。トレーニングもハードにやるのではなく、スマートにやる。これはジムで何度も言われたことだ。

何年間か海に入っているうちに、以前自分がどれだけ周りを見ずにやっていたかがよくわかったし、いかにみんなが自分を守ってきてくれていたかがよくわかるようになった。今ではできる限り周りの邪魔をせずに、いい位置からテイクオフすることを学んだと同時に、昔の自分のように始めたばかりで周りが見えてない人が怪我をしないように、さりげなく守ってあげられたらいいなと思いながら見守っている。

━━━ 自分の弱点と強みはなんだと思いますか?

弱点は、すぐトラブルに巻き込まれること、そして一人でなんでもやろうとするけど、そのことで心細くなること。あと助けを求めるのに躊躇すること。

強みはどんな困難でも乗り越えられる強さ。チャレンジする気持ち。クリエイティブにいろんな問題を解決する方法を編み出すこと。

━━━ 最近いろんな大会で入賞していますが、いくつか戦歴を教えてください。

昨年、マウイのローカルコンテストGerry Lopez Surf Bashのアダプティブ部門で2位。そしてカリフォルニアで開催されたナショナルアダプティブサーフィンで優勝したよ。

━━━ つまり全米チャンピオン!?

たくさんのクラスがあるからね。でも今の課題として、今度は義足をつけて義足で立ち上がって波に乗りたいんだ。そしてそのクラスで戦うことが今年の目標。

━━━ 正式なハワイ・アダプティブサーフ・チームのメンバーですよね。ということは次のパラリンピックも狙っている?

そりゃあもう、出られれば最高だね。今年からアダプティブサーフィンのワールドツアーが始まるんだ。アメリカはハワイとカリフォルニアで一戦ずつ、ヨーロッパではイギリスやスペインなど3戦。以前ヨーロッパの大会を日本人のマサ(小林マサ選手)とオーストラリアのマノの3人で転戦したことがあるんだ。最高の旅だった。

━━━ 今まで普通の人では経験できないような試練と挑戦をこなしてきたわけですが、その過程で学んだ、あるいは得たものの中で最も大切なものはなんですか?

What’s in your heart is stronger than what’s in front of your way.(自分がやりたいと思うこと、やろうと思うことは、目の前に立ち塞がる障がいを必ず打ち負かせる)。あとは自分が思いつく限り最も大きな夢を持ち、それが実現することを信じること、かな。

━━━ 実際にそれを達成してきたジョッシュだからこそ、意味深くて説得力がありますね。これからの目標はなんですか? 近い将来、そしていつかはと、思っていることも。

今後の目標はたくさんあるよ。まずはハワイのノース側の波に義足をつけて乗れるようになること。サウスサイドでは義足で何回か波に乗れているんだけど、まだノースのパワフルな波ではできていない。いつかは乗れるようになりたいと思っている。それと最終的にはフォイルでダウンウインドできるようになったら最高だなぁ。見ていてとても気持ちよさそうだから。まだ僕は昔ながらのブローンパドルボードしかやっていないけど。

そして人生の目標としては大きな波に乗ること。今は無理でもいつかは乗りたい。そのためにトレーニングを続けていれば、必ずその日が来ると信じているし、その時になったらちゃんとそれに必要な人が声をかけてくれて、今がその時だってわかるようになると思うから、焦らずにまずはスキルを上げていこうと思っている。

━━━ 大きな困難を前にしている人、あるいは目標が見つからない人に何かアドバイスはありますか?

Just hold your head a little higher. うつむきたい気持ちの時に頑張って、ほんの少しだけ顔を上にあげてみる。そうすると見える世界がちょっとだけ広くなる、そして次の日はもうちょっとだけさらに顔を上げてみる。そんな小さなステップを一歩一歩繰り返していくうちに気がつくといろんなものが見えるようになってくる。最悪の状況からいっぺんに最高の状況には変わらないかもしれないけど、ベイビーステップを踏んでいくことで必ず変わる。そして気がついたら想像もしなかった素晴らしい場所に立っている自分に気づくと思うよ。

インタビューを終えて〜ジョッシュがジョーズの波に乗ることを信じて応援し続けたい

ジョッシュの一番大きな夢は「大きな波に乗ること」と、大雑把に答えてくれたけれど、彼はジョーズでチューブに乗りたいと思っていることを私は知っている。まだホキパでちゃんとテイクオフができない頃、それをいつも口にしていたから。そして上手くなればなるほどそれがどれほど大変なことで、多くのサポートと自分の努力が必要かがわかっている。ビギナーの頃よりずっとずっと謙虚さを学び、海への畏敬の念を持って波乗りに向かっているのを感じさせる答え方に私は感動した。以前だったら、「ああ、また分かりもしないのに大きなことを言っている」と思ったかもしれない。でも、「謙虚な姿勢で準備ができた時にはそのタイミングがやってくるから、それまで練習を続けるだけだ」と答えたジョッシュを見て、私は本気で彼がいつかジョーズの波に乗るだろうと確信した。Biggest dreamを彼が達成する時に、その場で見られることを願いながら彼を応援し続けようと思う。

頑張りすぎて無茶をしがちな彼に「足も手もないのにこれ以上何を失えば気がすむの?」と言えるくらいの友情と信頼関係は築けていると思うが、それは彼自身のセルフコンフィデンスやポジティブな態度のおかげであるのは確かで、彼がその境地にたどり着くまでにはどれだけの時間とエネルギーを要したかは想像に難くない。

彼が毎日海に出て波乗りを練習し、ジムに通ってトレーニングしている様子を見ることで、私はもっと頑張らなくちゃといつも刺激をもらっている。口では憎まれ口を叩いて心配するうるさいお姉ちゃんを演じているけれど、実はいろんな意味で私は彼を大いにリスペクトし、彼から多くを学ばせてもらっている。

インタビュー・文◎岡崎友子(おかざき・ともこ)
鎌倉出身、ハワイ・マウイ島在住。プロウインドサーファー、プロカイトボーダー、オーシャンアスリート。1991年、ウェーブライディングで世界ランキング2位に輝くなど数多くの実績を誇るウインドサーフィン界のレジェンド。カイトサーフィンのパイオニアとしても知られる。現在は、スタンドアップパドル、フォイルサーフィン等、様々なマリンスポーツの楽しみ方を伝えている。また、キッズキャンプを主宰するなど子供たちの環境教育にも熱心である。