WATERMAN'S TALK

Just keep paddling
サーフィンは生涯飽くことのない
学びと喜びを与えてくれる

今月のウォーターマン
2021年12月20日
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PROFILE

  • ジェリー・ロペス

    Gerry Lopez
    プロサーファー

サーフィンを仕事にして生活できるなんて考えられなかった

WATERMAN’S TALK(今月のウォーターマン)は、毎号一人のWATERMANを紹介していく連載企画です。WATERMANの一般的な定義はありませんが、ここでは「海が大好きで、海に感謝の気持ちを持ち、海の窮状を目の当たりにして、海のために何か行動を起こしている人物」とします。第7回はサーフィン界のレジェンド中のレジェンド、ジェリーロペス氏が待望の登場です。1970年代後半からと80年代にかけて、パイプラインで誰よりも多くの時間を費やし、パイプラインの神様と称された彼は、人間を寄せつけない波、人間を飲み込むような恐ろしい波、想像を絶するほど大きな波、嵐の中で荒れ狂う波など、世界中のどのような波とも常に冷静に向き合ってきました。波に対して決して抗うことのない謙虚な姿勢は人柄にも表れており、彼は今も世代を超えて、サーファーのみならず多くの人々からリスペクトされています。
「サーフィンというのは、単なる身体の動きではなく、心のありようなんだ」
静かに語る、そんな彼の言葉の一つひとつに深い示唆を感じながらのロングインタビューをありのままにお届けします。

━━━ サーフィンを始められて既に60年以上になると思いますが、最初に波に乗ったときのことを覚えていますか?

不思議とはっきりと覚えているんだ。その時の水の感覚や景色まではっきりと。それだけ強烈な体験だったんだろうね。10歳の時のこと、母は高校の教師だったんだけど、教え子たちがベイビークイーンズにあったサーフボードを貸すショップで働いていたんだ。たぶん成績が悪いのを大目に見るとか、そんなことで交渉したのかもしれないね(笑)。その子たちからサーフボードを借りて、私と弟のビクターをサーフィンをしに海に連れて行ってくれたんだ。私はボードに腹這いになってパドリングの真似をしながら、母はその横でボードを支えながら沖に向かい、良さそうな波が来たときにタイミングよくプッシュしてくれた。するとボードはスーッと波に乗って僕を岸まで運んでいったんだ。その時の気分は素晴らしかった。大喜びで沖まで戻ってくると母は嬉しそうに、「じゃあ、今度は走り出したら、立ってみたらどお?」と言ったので、その通りにしたら、ちゃんと立てて、ボードが水の上を突っ切って走っていくのを上から眺めたんだ。それが私のサーフィン人生の始まりだよ。

━━━その後、どのような経緯でプロサーファーとして生活するようになったのですか?

サーフィンで生活しようなんて考える人は当時一人もいなかった。むしろサーフィンは社会にとって悪いもの、不良の一歩手前の若者がやる遊び程度に思われていたから。でも、ご存じのようにサーフィンというウィルスはとても強くて、お金とか名声など関係なく、誰でも捕まったら逃れられない。私もとにかくサーフィンがしたい、それだけだった。とはいえ母が連れて行ってくれてから数年は自分ではなかなか海に行くことができず、学校のチームスポーツ、野球とかに一生懸命で、それほどサーフィンはしていなかった。コンスタントにやりだしたのは14歳の時に初めて自分のボードを手に入れてからかな。

━━━ 最初のマイボードはどのようなものでしたか?

当時はボードを買う余裕もなかったし、ボードを運ぶ車も運転できなかった。でも、たまたまカリフォルニアからヨットでハワイに来ていた家族がいて、ヨットにサーフボードが積んであった。その家族の子供が、私がアラワイ運河に持っていたちっぽけなボートに乗りたがり、それと交換にサーフボードを貸してもらっていたんだ。2週間後、彼らがハワイを出発する時に、「もし、そのボードを欲しかったら安く売ってあげるよ」と言われて買ったのが初めての自分のボードだよ。Joe Quiggシェイプのボードで、ノーズ部分が大きく壊れていてフォームも傷んでいた。そのボードを直すためにInterisland Surfboardに持って行ったら、自分でできるからやってみろよ、とフォームのかけらとファイバーグラスをくれたんだ。それが初めてのリペア体験。それからリペアの仕事を請け負ったりするうちに、シェイプへの道へとつながっていったんだ。

━━━ あなたのサーフィンライフを振り返ると、活動ベースが少しずつ変わっていったと思います。最初はアラモアナ、そしてパイプライン、Gランド・・・そんな中で自分にとって転機というのはありましたか?

どの場所も本当に思い出深く、そして自分を形作ってくれた場所、その時期にその場所にいたことが大いに自分のためになっていた。アラモアナでやっていたことをさらに深めようとしたら、自然とパイプラインに向かうようになったし、パイプラインは冬だけだから、夏にパイプラインのような波を求めていったらGランドに出会った。そんな感じで人生の転機はどちらかというと、場所よりもヨガ、シェイプ、そして子供が産まれたことに起因していると思う。

━━━では、その3つの転機について伺います。

ヨガはサーフィンと同じくらい私にとって大切なものになったけど、きっかけは可愛い女の子が大学のキャンパスでヨガ・クラスの案内を見ていて、そこに行けばその子に会えると思ったからなんだ。クラスに行ってみたらはその子は来ていなかったけどね(笑)。

でもそれからというもの、ヨガが人生の財産になった。ヨガは身体だけでなく、精神、感情を調える効果も大きい。ヨガのおかげで身体の柔軟性が保たれ、今でも、ショートボードもスノーボードでのエアーもできる。自分のやっているルーティーンをすべてこなすと3−4時間はかかるけど、毎日そんなにやっているわけではない。ただロックダウンの時は、バハからオレゴンに帰ったらスキー場もクローズしていて、家にずっと閉じこもっていたので、一日中ヨガをやっていた。毎日6時間くらいはしていたよ。

━━━わずかな時間にヨガをするなら、あるいはいくつかのポーズだけやるなら、どのポーズが重要だと思いますか?

私の師は三つだけ選ぶなら、ヘッドスタンド、ショルダースタンド、フォワードベンド、と言っていた。ヨガは周りとのハーモニーを築いていく大切さを教えてくれる。ヨガをしていなかったら自分のサーフィンもまた違ったものになっていたかもしれない。

息子アレックスの成長が、自分の人生における最大の誇り

━━━シェイプを始めたきっかけを教えてください。

必要になったから(笑)。私がディック・ブルーワーに削ってもらったサーフボードがハワイでのショートボード・レボリューションのきっかけとなり、誰もが同じようなボードをRB(ブルーワーの愛称)に注文し、ボードが手に入らなくなってしまった。だから自分で削るようになったんだ。おかげで毎日のように自分が感じたフィードバックを次のボードに反映させ、毎日のように新しいボードをテストできた。それはパイプラインでのパフォーマンスに大きく役立ったと思う。シェイプを仕事にし、生活できるようになってからも、波がいい時は仕事をしないことを容認されていたから思い切りサーフィンができた。波を優先させるライフスタイルを確立できたんだ。まだ当時はプロサーファーなんてものは存在しなかったから、波を楽しみながら生活できるなんて思いもしなかったよ。

今はもうほとんどボードは削っていないんだ。私のボードがほしい人はアレックス(息子)に頼むといい。彼は私よりうまいし、注文してから何年も待たずに済む。私ですら自分のボードはオレゴンの川(ベンドを突っ切る川の中にホワイトウオーターパークという波に乗れる公園がある)で使うボード以外は全部彼に削ってもらったものだよ。

━━━ その息子さんが生まれたことも転機だったとのことですが、お子さんが小学校に上がるタイミングでオレゴンに引っ越しましたよね。

いいタイミングだったと思う。ちょうどスノーボードを夫婦で始めて、一緒に楽しめるから夢中になっていた時期でもあった。ある夏に友人夫婦とベンド周辺をバイクで旅していた時に、みんなそのエリアが気に入って衝動的に家を購入したんだ。冬だけ使うつもりだったんだけど、息子の教育のことや、彼にハワイだけでなくいろんな世界を見せたかったというのもある。今振り返ると、とてもいい決断だったと思う。

━━━ でも海からは遠くなりますよね。まだまだサーファーとして全盛期だったあの時期に、そこから離れることに躊躇はありませんでしたか?

あまり考えなかったね。いつでも飛行機に乗ればハワイにもすぐ行けたし、実際インドネシアやバハ、ハワイにしょっちゅう行っていた。そのうえフッドリバーも近いし、乗る波がパイプラインのような波だけではなくなっただけで、波乗りしている時間がそれほど減ってはいなかった気がするよ。オレゴンコーストにも波があり、そのうえ当時はまだ混雑もなかった。サップを始めてからは、また波乗り病が復活して、雪が降ってるなか往復3時間かけてオレゴンコーストまで波乗りに行っていた時期もあった。素晴らしい山のすぐ近くだったし、そこでのスノーボードはまさにフローズンウェイブでの波乗りだったからあまり波から離れたという意識はなかったんだ。(実際、彼はオレゴンのバチェラーマウンテンで、ジェリーロペス ビッグウエイブ チャレンジという雪のバンクをサーフポイントに見立てたスノーボードイベントを毎年開催し、人気イベントになっている)

━━━ オレゴンで育ったこともあり、親から無理に勧められることもなかったから、アレックスはそれほどサーフィンに興味を持つことなく育ち、プロスノーボーダーとして活躍してきましたね。でも今はサーフィンに夢中で、真剣にシェイプを学んで多くのプロサーファーのカスタムボードも削っていると聞きますが、やはり親としては自分の大好きなことを共有できるのは嬉しいでしょうね。

私が人生で最も誇りに思っているのはアレックスがサーファーとして、そして人間として尊敬できる存在に成長していること、それだけで私の人生は完璧だと思える。

━━━ 初めて波に乗ってから60年以上にわたり、数えきれないほどの波に乗られてきましたが、今も強く思い出に残る波を5つあげてください。

これだけは、はっきり答えることができるんだけれど、まったくもってわからないよ(笑)。なぜならサーファーというのは、どんなにいい波でも、それに乗り終わってしまうと次に乗る波に頭がいってしまうんだ。特にいい波に乗っている時であればあるほど、その時の自分は瞑想に近い状態、何も考えてない無の状態だからね。もちろんいろんな波やシチュエーションを覚えてはいるけれど、どれが一番良かったなんて選ぶのは無理だ。つまりサーファーというのはショートメモリーしか持てないんだ。どんなに怖い思いをしても、いい波に乗っても忘れてしまう。次の波のことばかり考えているものなんだ。今でも、過去を振り返ることはないよ。明日はどんな波に乗れるのかを考える方がワクワクする。

サーファーとしてのキャリアはヨガとともに始まったと言っていい

━━━70年代に入ってサーフィンブームが起こり、スミルノフなど大きな大会で賞金が出るようになり、あなたもプロサーファーとして注目されましたが、当時はどのような暮らしぶりだったんですか?

確かに多くの大会があり、大きな賞金の大会もあったけど、実は私はパイプラインでの大会以外で優勝した経験はほとんどないんだ。ワールドチャンピオンシップなどで、オーストラリアや日本にも行ったけれど、勝ったことなんてないよ(笑)。 たまたまパイプラインの波とは相性がよく、誰よりもそこで波に乗っていたから有利だっただけ。友人の紹介で映画の出演などもあって、派手な生活だったと思われているかもしれないけれど、私は70年代半ばには、すでにマウイの山の上の誰もいないような森に引っ越していたから、普段は仙人のような暮らしをしていたよ。シェイプして海に降りて行って波に乗る・・・それの繰り返し。あるいはパイプラインが良さそうだという情報が入ると、飛行機に30分乗ってノースショアに行く・・・そんな感じ。

━━━ 70年代後半から90年代初めまでマウイに住んでいて、当時はウインドサーフィンにも熱心で、マスタークラスではいつも決勝に出ていましたね。ウインドサーフィンを始めたきっかけは何だったのですか?

マウイに引っ越してからホキパビーチがメインのサーフスポットだった。でもノースショアに比べて波の質は良くないし、いつも風が吹いていてジャンクだった。そんなある日、二人の細い子供がホキパにやってきて、ボードにセールがついたもので波乗りを始めて・・・ウインドサーフィンを目にしたのはその時が初めてだった。崩れる波をジャンプしたり、ピークにいるのが難しいホキパの波でも、ウインドサーフィンだったら、あちらこちらに移動できて簡単に乗れてしまう・・・それを見て、これはなんだ!とびっくりしたよ。実は二人の少年は、マット・シュワイツアーとマイク・ウオルツだったんだけどね。

その後、マウイではフレッド・ヘイウッドが最初に道具を手に入れて、ウインドをやり始めた。僕は仲間のビル・ボイヤムたちと一緒にフレッドから教えてもらったんだ。1980年のことだ。86年にはNorthSwellというウインドサーフィンのショップをパイアにオープンした。サーフボードも売っていたけど、あくまでウインドがメインのショップだった。それから何年か経って、アレックスが生まれた時にCatsle Kidsという子供服のお店に変えたんだ。収益は子供服の方がずっと良かったね(笑)。

私はこれまでサーフィンだけで生活してきたことはない。サーフィン関連ではあるけれど、シェイピングや原稿の執筆もして生活してきた。今はフリーサーファーとして旅とサーフィンするだけで生活できる人もいるけれど、それだけ業界が成長したということだね。どちらがいいというわけではないけれど、私は私の歩んできた道がとてつもなく幸運だったと思っている。シェイプや執筆は一生続けられる仕事だし、サーフィンとの密接な関係を死ぬまで続けていられる。こんな幸せなことはない。

━━━ 今はバハにいらっしゃいますが、最近はそこがベースになっているのですか?

しばらくオレゴンに住んでいるけど、ここ数年、サーフィンできるのもあとどれくらいだろうと思うようになった。だから、できるうちにたくさんの波に乗りたい。そういう意味で、バハの暖かい海は、長くサーフィンしていられるし、生活もしやすいから、ここにいることが多くなりつつあるね。トニーも私も、カイトも好きだし、フォイルやウイングにも挑戦し始めたし・・・いろいろなことを快適にできる。でも、オレゴンの家もあるから、スノーボードをしに帰ることもあるだろうし、キャンピングカーもあるからどこにでも旅することもできる。

━━━こんなに永く続けることができたサーフィンの魅力について教えてください。

サーフィンは私にとって、そして関わる誰にとっても素晴らしいギフトだと思う。すべてのプロセスにおいて、果てしなくたくさんの教えを与えてくれる。パドリングだけでほとんど90%の人は敗北感を経験する。だけど、それでどこにも辿り着けない気持ちになっても、パドルし続けなければ波には乗れない。それは、まさに人生そのもの。サーフィンを通して学んだことによって、陸に上がってからの人生をより楽しく、幸せなものにできるはずだ。

━━━ あなたはサーファーの中でも、とりわけスピリチュアルで哲学的だと評価されていますがどう思いますか?

これも一つの転機だと思うんだけど、カリフォルニアにしばらくいた時、私がバイトをしていたHansenサーフボードショップの向かいに、私が師と崇めるパラマハンサ・ヨガナンダのSRF(Self realization fellowship)の本部があったんだ。その時はヨガについて考えたこともなかったし、それよりもそこのマッシュルームバーガーが安くて美味しいからよく食べていたんだけれど、ヨガナンダはその後の私にとって非常に大切な人となった。私のサーファーとしてのキャリアもそこから始まったと言っていい。ヨガナンダの著作「あるヨギの自叙伝」は、私がもう何十年も繰り返し読んではその度にいろいろなことを感じる愛読書なんだけれど、その中にこういう一文がある。

The Ocean can exist with waves, but the waves cannot exist without the Ocean.

ヨガナンダがあの崖の上から海を見て、何かを感じていたんだろうなあ、だからこのような言葉を残していったのだろうなあと思うと、なんだかとてもつながりを感じるんだ。波は本当にスピリチュアルなもので、彼も波乗りこそしてなかったものの、波を見ていろんなことを感じていたのだろう。

━━━ 次世代の若者たちに、あなたが海から学んできたことで伝えたいことはありますか?

私から言わなくても海がすべて教えてくれると思う。どんな時でもパドルし続ければ、大変な状況がスーっと変化する瞬間がやってくる。人生には乗り越えられないと思う困難がいくらでもやってくるけど、パドルし続ければなんとかなると海で学ぶことができたら、それほど強い武器はない。

Simply, just keep paddling.

インタビュー・文◎岡崎友子(おかざき・ともこ)
鎌倉出身、ハワイ・マウイ島在住。プロウインドサーファー、プロカイトボーダー、オーシャンアスリート。1991年、ウェーブライディングで世界ランキング2位に輝くなど数多くの実績を誇るウインドサーフィン界のレジェンド。カイトサーフィンのパイオニアとしても知られる。現在は、スタンドアップパドル、フォイルサーフィン等、様々なマリンスポーツの楽しみ方を伝えている。また、キッズキャンプを主宰するなど子供たちの環境教育にも熱心である。