WATERMAN'S TALK

「ウインドサーフィンの創始者を父に持つ、リビングレジェンド」

今月のウォーターマン
2021年10月20日
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PROFILE

  • マット・シュワイツァー

    MATT SCHWEITZER
    プロウインドサーファー

父がウインドサーフィンを創った頃の話をしよう

WATERMAN’S TALK(今月のウォーターマン)は、毎号一人のWATERMANを紹介していく連載企画です。WATERMANの一般的な定義はありませんが、ここでは「海が大好きで、海に感謝の気持ちを持ち、海の窮状を目の当たりにして、海のために何か行動を起こしている人物」とします。5回目に登場するのは、ウインドサーフィンの創始者であるホイル・シュワイツァー氏を父に持ち、ウインドサーフィンとともに成長し、第1回のウインドサーフィン世界大会のワールドチャンピオンでもあるマット・シュワイツァー氏です。ウインドサーフィンのロイヤルファミリーの中心人物である彼は、誰もが認めるウォーターマンの一人として、ウインドサーフィンというカテゴリーに収まらない多彩な活動を続けています。

━━━まずはお父様がウインドサーフィンを思いついたきっかけから聞かせてください。

ウインドサーフィンがスタートしたのは1967年のこと。当時、僕らは南カリフォルニアに住んでいて、父はコンピュータの仕事をしながらサーフィンやヨット釣りなどを楽しんでいた。彼の仲間にはブギーボードをスタートさせたトム・モーリー、クラークフォームのグラビー・クラーク、一世を風靡したサーフボード・メーカーのホビー・オルターといった、なんともカラフルなキャラクターが揃っていた。みんなチャレンジすることに熱心で、それぞれに異なる分野で成功を収めたよ。父も彼らと同じだった。カリフォルニアは、午後になると風が出てきて波が悪くなる。彼はサーファーだったから、そうしたコンディションに対して何かできないかといつも考えていた。そして思いついたのがウインドサーフィンだったんだ。ウインドサーフィンは、最初はスケートとかバハボードとか呼ばれていたけど、あるとき仲間のバート・サルスベリーが、ウインドサーフィンという名前を思いつき、しっくりきたのでそう呼ぶようになったんだ。

━━━ウインドサーフィンは、誕生してすぐ人気爆発というわけにはいかなかったそうですね。

最初はアメリカ各地にプロモーションに行って、ディストリビューターを増やすことに努めたんだ。例えばフロリダでは、アレックス・アグエラの家族が、いくつかボードをオーダーしたいと言うので、10セット買うことを条件に、彼らをフロリダのディストリビューターにしたんだ。最初はみんなやり方がわからないから、シミュレーション・キットを作って、それを売ることから始めた。ゴルフボールを敷き詰めた上にボードを置いたシンプルなものだったけど、それで感覚をつかんでから、実際のボードを買ってもらうようにしていた。

━━━それからいっきにウインドサーフィンが世界中に広がってったのですか?

そんな簡単ではなかった。アメリカではすぐには火がつかず、両親はほんとに苦労していたよ。とくに母親がね。そのあたりのエピソードは映画「Broken Molds」で詳しく紹介されているよ。はじめはヨーロッパで火がついたんだ。ウインドサーフィンに興味を持ち、僕らを訪ねてくれた二人のヨーロピアン、イタリア人のルディとイギリス人のダゴベンツが、ウインドサーフィンをヨーロッパで広めてくれたんだ。その後、ウインドサーフィンが盛り上がったのは、ボードをワンデザインにしたからだと思う。同じボードで公平な条件の中で競えるから。第1回のワールドチャンピオンは、1975年にフランスで開催され、僕が優勝した。当時は世界中の数少ないウインドサーフィン愛好家と知り合いになり、みんなで集まれることが本当に楽しかった。そしてその当時の仲間が、今でもいろんな形で海に関わっていて、付き合いが続いているよ。

━━━ウインドサーフィンが流行り出したら、道具に関して様々な改良がされるようになりましたね。

そう、とくにハワイでね。ハワイは波も風もカリフォルニアとは全然違った。疲れないようにハーネスを使うようになったり、ダガーボードを小さくしたものや、スケッグも半分くらいにしてフリースタイルがしやすいように工夫されたりしたよ。フットストラップの存在も大きかったね。

ウインドサーフィンは、マウイで発展した。

━━━マウイに引っ越したのはいつ頃ですか?その経緯も教えてください。

オアフには、カイルアボーイズと僕らが呼んでいたウインドサーファーたちがいた。ラリー、マイク・コーエン、デニスなど、彼らはいつも僕らにオアフのウインドサーフィンの写真を送ってきたんだ。カリフォルニアは風が吹くのを待ってばかりいたけど、オアフは毎日のようにいい風が吹いていて、写真で見る海はクリスタルブルー、ヤシの木がたなびいてパラダイスに見えた。だからハワイに行こうという気持ちはいつもあったんだ。そんなとき仲間の一人、ケニー・クライドが、マウイが一番風が強いことを知り、マウイに引っ越した。それと同じ時期に、父がマウイ島のカパルアの近くに土地を購入し、小屋を建て始めたんだ。1976年だったかな。そこは小さな湾があって、すぐにウインドサーフィンに出られる本当に素晴らしいロケーションだった。そこで毎日R&Dに励んでいたよ。今はずいぶん雰囲気も変わり、コンドミニアムが建ち、ハッピーオプと呼ばれるスポットになったけどね。当時は今より良い風が吹いていた。以前はトレードウインドがもう少し北から吹いていたからね。信じられないかもしれないけど、最近はトレードウインドも気候変動のせいなのか、方角が少しシフトしているよ。今は、より東寄りの風になり、ウエストサイドはかつてのようには風が入らなくなった。以前からホキパほどいつも吹いているわけではなかったけど、沖にはモロカイが見え、しょっちゅうモロカイまでウインドサーフィンで行き来していたよ。

━━━マウイとモロカイを結ぶ海峡は荒々しく、パドルレースなどでもビッグ・チャレンジとされていますが、モロカイへは日常的に行っていたんですね。

All the time! そうだよ、 とにかくいつでも気軽に行き来していた。家族の友人であり、映画「Broken Molds」のプロデューサーでもあるスコット・シューメイカーがモロカイに家を建てている時、僕も手伝っていたんだ。モロカイにはなんの道具も売ってないから、何か足りないものがあると、僕がウインドサーフィンでマウイに戻って、釘やらハンマーやら必要なものを調達して、また戻って来たりしていたよ。僕にとっては、仕事から抜け出してウインドサーフィンができる格好の言い訳になったしね (笑)。

━━━当時は年を経るごとに、マウイはウインドサーフィンのメッカになっていきましたが、どんな感じだったのですか?

毎日のようにデザインが変わり、日々誰かが新しいトリックを考え、そのまた次の日にはみんながトライしている。ものすごいエネルギーに溢れた、本当に刺激的な時代だった。僕は特にエアーが好きだった。高く飛ぶのはフットストラップがないとできなかったけど、ストラップを初めてつけてアウトに出てジャンプした時、これだ!って思ったね。誰よりも高く、誰よりもクレージーに飛びたかった。もともとモトクロスもやっていたから、その感覚を海でも得られるのが面白かった。

━━━自分に大きな影響を与えたり、転機となった出来事はありますか?

やはり結婚したことかな、僕はそれ以前からファミリーマンだった。大会もプロ活動も楽しいけど、あまり前に出たがるタイプではないんだ。仲間でワイワイプッシュし合うのは好きだったけど。だから結婚して、子供が生まれて、若いうちから家族優先の生活を送っていた。家族全員、海が大好きだったこともあって、みんなでいつも海で過ごしていたね。もう一つ、ポジティブなことではないけど、ガンになったことが大きな転機になった。当時は皮膚ガンというのはあまり知られていなかったし、サンスクリーンなんて存在しなかった。何しろ若い女の子がビキニ姿でオイルを塗りたくって肌を焦がす時代だったんだから。でもステージ3で死ぬ覚悟もしたよ。家族を置いて人生が終わってしまうのかと思うと本当に怖かった。ありがたいことに今も僕はここにいて、毎日海に入り、家族と一緒に過ごしている。孫までいるんだ。素晴らしい大家族に恵まれて幸せだよ。ガンになったことで自分が一番大切に思っているもの、そして何に時間を費やしたいか、どう生きたいかをはっきりさせることができて、無駄のない人生が送れていると思う。

父の功績を称える、人々からのかけがえのない言葉

━━━ウインドサーフィンの初期から、その進化をずっと見てきてどのように感じていますか?

ウインドサーフィンは僕たちが海に関わる一つの楽しみ方だけど、どんな形でも海に関わるのは素晴らしい経験になると思う。その後、現れた新しいスポーツも、ウインドサーフィンからヒントを得たり、ウインドサーフィンから生まれた技術やデザインが役に立っていることがとても多いんだ。ウインドサーフィンがマウイで発展したことで、フットストラップやスピードに耐えられるフィンの素材なども生まれた。それがトゥインサーフィンやカイトサーフィンの初期に役立ったし。今、ジョーズのビッグウエイブガンを削る第一人者のショーン・オルダネスはもともとウインドサーフィンのプロで、ウインドのボードをシェイプしていたから、最新のコンストラクションやウインドサーフィンで培ったデザインアイデアをガンボードに活用している。ジョーズは風が強く海面が荒れている時が多い。そんな中を突き入っていくボードはウインドサーフィンのデザインからインプットされている。スタンドアップパドル、フォイル、そして最近ではウイングフォイルと、続々と新しいスポーツが出てきているけど、全てウインドサーフィンの子供や姪っ子や甥っ子のようなものだ。これだけたくさんのスポーツが、どれだけたくさんの人を楽しませているか、それを考えたらなんて素晴らしいスポーツなんだと思うし、その生みの親である父と母を誇りに思うよ。

━━━今、あなたや息子さんのゼイン、そしてゼインと同世代の若者たちが、最前線のウオーターマンとして活躍しているのは素晴らしいですね。お父様からマットに受け継がれ、それがまたゼインや他の若者たちに引き継がれ、三世代にわたってウインドサーフィンや他のマリンスポーツの発展に大きく寄与している……。

面白いのは、今、ゼインたちは僕らがウインドサーフィンで経験していたそのままのことをウイングやフォイルでやっているんだ。新しいスポーツのパイオニアとしてどんどん新しいデザインを考え出し、それを試し、技術でもデザインでも日々進化するど真ん中にいる。それはスポーツの歴史において一番エキサイティングな時期だ。同じ経験を子供たちがしているのを見るのは嬉しいし誇らしいよ。

━━━3人のお子さんたちはそれぞれ海に深く関わりながらも違う道を進んでいますね。

ゼインはいろんな人にサーフィンやサップ、フォイルを教えながらプロアスリートとして世界のトップを目指して頑張っている。長男のマットはサーフィンもトゥインもするけど、フィルマーとしてのキャリアを進んでいる。シェルビーはサーフィンでトップアマチュアであり、もうすぐママになるんだ。何より家族が仲が良く、自分のルーツである海が彼らにとっても全く変わらない大事な存在であり、家族みんながそれを共有していることが強い絆をさらに強くしているように思う。そして孫ができてから、その知識と経験をみんながまた子供たちに伝え、分かち合おうとしているのも嬉しい。

━━━11月に公開予定の映画「Broken Molds」ですが、もう数年前からずっと温め続け、撮り貯めていたプロジェクトですよね。どんなきっかけで作ることになったのですか?

父はウインドサーフィンが始まった時から、ありとあらゆる映像を撮り貯めていた。全て捨てずに残してあり、それを全部僕に託したので、自宅の物置にものすごい量の資料があるんだ。いろんな映画にちょこちょこ映像を提供したことはあるけど、全てを簡単に整理できる量じゃない。それを見て友人のスコット・シューメイカーがこのまま埋もらせてはいけない。ウインドサーフィンの歴史を記録に残そうじゃないかと提案してくれた。最初はウインドサーフィンの歴史というか、シュワイツァー・ファミリーの記録みたいなものになるかなと思っていたんだけど、いろんな貴重な映像があり、素晴らしいスタッフが関わってくれて、家族の歴史以上のものになっていった。ウインドサーフィンがいかに多くの人に影響を与え、あらゆるスポーツや場所を変えていったか、ウインドサーフィンという小さな窓を開いたことで大きな世界がいろんな方向に広がっていったのを昔の映像からごく最近のハイパフォーマンスまで、全て組み込まれ、表現された素晴らしいドキュメンタリーになった。この秋から冬にかけてたくさんのフィルムフェスティバルに送られる予定だけど、既に20−21年度のベスト・ドキュメンタリー賞を受賞したらしい。それも嬉しいことだけど、同時にセーリング協会から連絡があり、父がナショナルセーリングホール・オブ・フェイム(国内のセーリングで多大な影響を与えた名士の称号)を受賞したと聞いた。セーリング協会とはいろいろあったんだ。ウインドサーフィンをセーリングと認めようとしなかったり。だからようやく父の功績を認めてくれたことは、とても感慨深いことだ。父と母が苦労してきたのが報われる思いだよ。

━━━ご自身の功績をあえて言葉にすると?

いろんな大会にも出てきたし、いろんなタイトルも手にしてきたけど、そうしたことを覚えているのは自分だけだよ。いや自分でさえ覚えていない(笑)。でも何十年もウインドサーフィンをしてきて、父親がスタートさせたこのスポーツが、いかに世界をポジティブにしてきたかを直接感じる経験を何度もしている。この歳になってもまだ、どこに行っても知らない人に声をかけられる。ウインドサーフィンがいかに彼らを救ったか、人生を変えたかを熱心に話してくれる人は、増えることはあっても減ることがない。Windsurfing saved my life!と真剣な目をして感謝してくれる人たちに出会うと、このスポーツがどれだけたくさんの人にハッピーライフを与えてきたのかを知ることができる。そしてこれに勝る自分に充足感を感じさせる瞬間はないよ。ウインドサーフィンが自分を幸せにしてくれた、そう言ってくれる人に会うたびに、このスポーツに関わってきて、少しでも世界をより良いものに、ポジティブなものにする貢献ができたことを誇りに思うよ。

━━━最後に……実は私が子供の頃、みなさんがレースのために来日されて、デニスが私をウインドサーファー艇に乗せてタンデムしてくれたのが、私にとって初めてのウインド経験なんです。

新島の大会の後だね。あの新島は凄い波だった。日本というと、みんな波がないイメージを持ってるけど、僕が日本に行った時は必ず海は大荒れだった。新島ではウインドサーフィンの大会のために来たのに、荒れすぎてレースができず、サーフボードを持ってきていた僕らは、毎日サーフィンを楽しんでいたよ。沖縄ワールドもそうだった。ものすごい台風の中で、ボクとマイクとピートは最新のウエイブボードを持ってきていたのでジャンプセッションをしたけど、その後、誰も家から出られないほどの風になったっけ。御前崎もだ。とんでもない風で、砂で車が埋まってしまうほどだった。でも楽しかった。その後、日本には息子のゼインが行っているけど、僕は数十年行ってないし、妻は行ったことがないので、いつかみんなで行きたいと思っている。映画のプレミアがあればぜひ行きたいな。

インタビュー・文◎岡崎友子(おかざき・ともこ)
鎌倉出身、ハワイ・マウイ島在住。プロウインドサーファー、プロカイトボーダー、オーシャンアスリート。1991年、ウェーブライディングで世界ランキング2位に輝くなど数多くの実績を誇るウインドサーフィン界のレジェンド。カイトサーフィンのパイオニアとしても知られる。現在は、スタンドアップパドル、フォイルサーフィン等、様々なマリンスポーツの楽しみ方を伝えている。また、キッズキャンプを主宰するなど子供たちの環境教育にも熱心である。