CULTURE

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伝説のフリーダイバー
ジャック・マイヨールが遺したもの

LEGEND
2021年10月20日
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動物に対する徹底した謙虚な姿勢

人類で初めて水深100メートルまで素潜りした男、ジャック・マイヨール。映画「グランブルー」は、ジャックマイヨール氏をモデルに作られたもので、1988年の公開以来、今でも多くの人に愛され続けている。以前は、人間が息を止めて深く潜ると肺が圧力で押しつぶされて死んでしまう、と言われていたが、ジャックは、「人間はイルカのように、もっと、深く、長く潜っていられるはずだ」という確信のもと、ついに水深100メートルまで潜って生還を果たしてみせた。

1986年から僕はプロとして水中写真を撮っていたが、1994年にジャック・マイヨール氏の写真集の撮影を依頼される幸運を得た。それ以来、何年にも渡っていろんな国にご一緒させてもらうことになり、プライベートでも懇意にしていただいた。

初めの仕事では、ひと月以上かけてカリブ海を一緒に周り、イルカと泳いだりクジラと泳いだりしながら、海でのジャックのいろんな姿を撮影させてもらった。そしてその間、海や生き物に対する彼の姿勢に多くのことを学ばせてもらうことになった。特に、彼が海洋動物にアプローチする時、相手に絶対に威圧感を与えないよう努める姿は感動的ですらあった。クジラのいる場所のはるか手前でボートのエンジンを切って、手漕ぎでのアプローチを繰り返したり、イルカの群れと無理なく同化するために、イルカを決して追いかけず、イルカたちが来るのを辛抱強く待ったり、というやり方を延々と続けた。

そんな謙虚な姿を見て、僕は「ジャックは動物にアプローチする時にどんなことを考えているのだろう」と思い、尋ねたことがある。すると彼は、「I love you! とただただ語りかけているだけさ」と静かに語ってくれたのだった。確かにクジラと泳いでいる時、彼は両手を広げて海を抱きかかえるような恰好をし、全身でクジラや海全体への愛情を表現しているように見えた。

ホモデルフィナスになるために

彼は“ホモデルフィナス”という言葉を提唱し、人間はもともと海に適合できる動物で、今よりもっともっと海で自由になれるし、長く潜っていられる、まるで“イルカ人間”とでもいうべき存在だ、と語っていた。実際ジャックは自分の体を賭して、人間にも海棲哺乳類と同じく、潜水時に心拍数が下がって酸素の消費量を減少させる現象や、“ブラッドシフト”と呼ばれる、血液が大事な部分に集中する現象が起こることを立証したりもした。それを聞いて僕も当時、イルカにさらに親近感を感じたのを憶えている。

ジャックにとって、海は人間の生まれ故郷であり、同時にお母さんそのものであると感じていたに違いない。だから理屈抜きで海に愛情をたっぷりもっていたし、実際海にいる時の彼は、陸上にいる時よりも、気持ちも穏やかで幸せそうに見えた。そして母なる海にいる仲間、イルカやクジラたちに対しては、最大の尊敬と愛情をもって接し、自然を汚しながらあくせく働く人間よりも、気持ちに従って自由に心を開いて生きる姿に、憧れも抱いているようでもあった。

悲しいことに、彼は最期に自死を選んだ。晩年、「地球にとって、人間はいない方がいいのかもしれない」と何度となく語っていたし、人間界への不満のようなこともたびたび口にしていたこともあった。ホモデルフィナス・ジャックマイヨールは、イルカ人間を追求しそれを実証してみせた半面、イルカになり切れず、人間としての命を自分で打ち切ってしまったようにも思えてしまう…。

しかし、ジャックの生き方に影響を受けた次世代のホモデルフィナスたちは、その後潜水の記録を次々に塗り替え、人間の水棲能力をどんどん証明していくことになる。海に同化していく感覚、心拍数を変化させる呼吸法、海への愛情や自然との共生など、ジャックの海に対する想いは次世代の人達の中で確実に進化し、現在もしっかりと受け継がれている。

文・写真◎高砂淳二(たかさご・じゅんじ)
自然写真家。1962年宮城県石巻市生まれ。海中から生き物、虹、風景、星空まで、地球全体をフィールドに撮影活動を続けている。
「Planet of Water」 、「night rainbow」、「Dear Earth」、「光と虹と神話」、「夜の虹の向こうへ」ほか著書多数。地球のこと、自然と人との関わり合いなどを、メディアで幅広く伝え続けている。